ルツ記2章8~13節 「どんな時でも」
ルツ記は、イスラエルにとって他の民族との関係をどのように捉えるか、が物語のポイントだと思います。ルツについて三か所「モアブの女」と表現されていることから、異邦人との結婚を肯定し、そこからダビデにつながってくる血筋を正当化しようとの意図を感じます。
神の導きのもとで、イスラエルが神の民として歩んでいく時には、時として民族や血筋を超えて他者との<いのちのちながり>によって、困難を克服し乗り越えていくことができるという希望をルツ記は語っているのではないでしょうか。絶望や将来への展望がないと考える時にさえ、民族主義を超えて、共により豊かな充実した生き方を実現していくことができるという希望をです。どんな時でも、決したあきらめる必要はないし、生き残る希望は予め用意されているところに安心と平和が備えられていることへの信頼、ここに立っていれば何も恐れることはない、との声を、わたしたちはルツ記の物語から知らされているのです。
弱い立場におかれた寡婦や寄留の他国人も決して飢えてはいけない、守られなければならない社会の仕組みを、律法は確保しています。今日におけるナオミやルツの苦難が他人事ではないことを聖書は、わたしたちに問いかけています。誰もが、飢えることなく安心と平和に生きること、その背後には神からの、これによって生きよとの呼びかけがあるのではないでしょうか。
寡婦や孤児、寄留の他国人たちを保護する目的で定められた、落ち穂拾いの規定を大切にしたことは、今日的な課題として吟味する必要に迫られているのではないでしょうか。ボアズがモアブの女ルツを引き受けることは、寄留の他国人に対する配慮としての律法の規定から転じたものでしたが、当時の庶民感覚からすれば、外国人の女性を妻として迎えることに諸手を挙げて賛成していたとは考えにくい。当時の常識との軋轢があったことは容易に想像できます。しかし、あえて民族性を超えて共に生きる在り方としての婚姻関係を選ぶことで、ボアズは多民族共生社会を、読み手に向かって示そうとしているのではないでしょうか。
現代のボアズのようなセンスを一人ひとりが取り戻すことによって、現代のナオミやルツが喜んで暮らせる社会に向けて祈りつつ歩むことが求められているのではないでしょうか。そうすれば、どんな時でも寄留の他国人の痛みを共鳴しうるセンスが備えられることによって、まことの福祉の充実した社会を作り上げていくことができるのではないでしょうか。ルツ記の描く社会とは、寡婦、寄留の他国人など弱くされた者が喜んで生きる社会の実現なのではないでしょうか。
主イエスの「幸い、貧しい者たち。幸い、飢えている者たち。幸い、泣いている者たち」との宣言が現代の課題へと転じていく、その展開点に教会は立つべきなのではないでしょうか。
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