詩編92:13-16 「白髪になっても」
わたしたちの教えられてきた神は、「栄光に輝く父なる神」、「力強い神」というイメージがあるのですが、神を「母のごと」、「父のごと」、「年老いたもの」、「若さに輝く者」、色々な年代に喩えていく讃美歌があります。364番。その中の4番に注目してみたいと思います。
神が老いている、その方は、「静かな配慮に満ち、知恵と理解 限りな」いのだと、賛美しています。今日のテキストは基本的には賛美の歌です。ここにあるのは、神に逆らうものが滅びて、神に従うものは祝福されるという物語です。13節から16節は、先程の讃美歌364番の4番によって言われているような、歳を老いていくところに恵みがある。それはこの世の価値判断とは相反するという理解があるのです。
13節「神に従う人」(「義人」ということ)は、「<なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえ」「主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。」とあります。つまり、神に結ばれている、神との関係において歳を重ねていく一人ひとりにとっては、「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきと」するのです。「老いる」とは、色んな能力が剥ぎ取られて、衰えていくという、この世における価値観とは逆に、余計なものが削ぎ落とされて、よりピュアな純粋なものに、非常にシンプルな信仰になっていくことです。わたしたちの信仰生活では、あれができる、これができるとかが付加価値として自分に与えられていくのですが、そうではなくて、それらが削られていく時に核となるような信仰こそが大切なのです。
今この世に神によって貸し与えられたいのちが存在しているという事実。それだけですでに神によって祝福されている存在なんだということを感謝をもって受け止めさえすればよいのです。より若い者たちは、自分たちができるとか持っているとかという価値観を相対化し、同じ持たざる者、神の側からすれば無に等しい者として、年老いた者と同列に立ち、お互いの命を尊敬しあいながら、「世話」をする、配慮を持って接するということがお互いに起こりうるということです。しばしば、お見舞いに行って、励ましにいったのに実は励まされて帰ってくるという経験をした方があると思います。ここでは交流が起こるわけです。そのような交流において、わたしたちは高齢者の日にあって、より若い者は高齢者を敬い、高齢者はより若い者に自らを委ねて任せていく、ということができれば、と願います。
幼子から老人まで、すべての人の命を、その奥底まで見据え、生き抜き、十字架にはりつけられ、よみがえられた主イエス・キリストの力によって今生かされているわたしたちには、いつでもこのような魂の交流が起こりうる、なぜなら神がそれを求めておられるからです。
« ヨシュア記 6章12~21節 「声を合わせて」 | トップページ | 士師記 7章1~7節 「たとえ、少なくても」 »
「詩編」カテゴリの記事
- 詩編150 「賛美するという生き方」(2021.12.26)
- 詩編 65:10~14 「収穫の風景に思いを寄せながら」(2020.11.22)
- 詩編119編 103節 「御言葉の味わい」(2020.05.17)
- 詩編 139:1~18 「小さないのち」 (農村伝道神学校4年 上杉理絵)(2019.10.13)
- 詩編71:1-24「恵みの御業」~「高齢者の日礼拝」~(2019.09.15)
« ヨシュア記 6章12~21節 「声を合わせて」 | トップページ | 士師記 7章1~7節 「たとえ、少なくても」 »
コメント