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2012年9月

2012年9月30日 (日)

ルツ記2章8~13節 「どんな時でも」

 ルツ記は、イスラエルにとって他の民族との関係をどのように捉えるか、が物語のポイントだと思います。ルツについて三か所「モアブの女」と表現されていることから、異邦人との結婚を肯定し、そこからダビデにつながってくる血筋を正当化しようとの意図を感じます。
 神の導きのもとで、イスラエルが神の民として歩んでいく時には、時として民族や血筋を超えて他者との<いのちのちながり>によって、困難を克服し乗り越えていくことができるという希望をルツ記は語っているのではないでしょうか。絶望や将来への展望がないと考える時にさえ、民族主義を超えて、共により豊かな充実した生き方を実現していくことができるという希望をです。どんな時でも、決したあきらめる必要はないし、生き残る希望は予め用意されているところに安心と平和が備えられていることへの信頼、ここに立っていれば何も恐れることはない、との声を、わたしたちはルツ記の物語から知らされているのです。
 弱い立場におかれた寡婦や寄留の他国人も決して飢えてはいけない、守られなければならない社会の仕組みを、律法は確保しています。今日におけるナオミやルツの苦難が他人事ではないことを聖書は、わたしたちに問いかけています。誰もが、飢えることなく安心と平和に生きること、その背後には神からの、これによって生きよとの呼びかけがあるのではないでしょうか。
 寡婦や孤児、寄留の他国人たちを保護する目的で定められた、落ち穂拾いの規定を大切にしたことは、今日的な課題として吟味する必要に迫られているのではないでしょうか。ボアズがモアブの女ルツを引き受けることは、寄留の他国人に対する配慮としての律法の規定から転じたものでしたが、当時の庶民感覚からすれば、外国人の女性を妻として迎えることに諸手を挙げて賛成していたとは考えにくい。当時の常識との軋轢があったことは容易に想像できます。しかし、あえて民族性を超えて共に生きる在り方としての婚姻関係を選ぶことで、ボアズは多民族共生社会を、読み手に向かって示そうとしているのではないでしょうか。
 現代のボアズのようなセンスを一人ひとりが取り戻すことによって、現代のナオミやルツが喜んで暮らせる社会に向けて祈りつつ歩むことが求められているのではないでしょうか。そうすれば、どんな時でも寄留の他国人の痛みを共鳴しうるセンスが備えられることによって、まことの福祉の充実した社会を作り上げていくことができるのではないでしょうか。ルツ記の描く社会とは、寡婦、寄留の他国人など弱くされた者が喜んで生きる社会の実現なのではないでしょうか。
 主イエスの「幸い、貧しい者たち。幸い、飢えている者たち。幸い、泣いている者たち」との宣言が現代の課題へと転じていく、その展開点に教会は立つべきなのではないでしょうか。

2012年9月23日 (日)

士師記16章23~28節 「弱さを認めること」

 サムソンは、神から怪力を与えられ、ペリシテの支配の中で反逆し、ペリシテ人の領主たちから恐れられ力の均衡が保たれていたようです。ペリシテ人の領主たちは何とかサムソンの力を封じたいと考え、デリラという女性を利用して怪力の元を探らせます。サムソンはデリラへの愛ゆえに神との約束を破り、怪力の秘密が髪の毛にあることを教えてしまいます。髪の毛を全部剃られて力を失い、ペリシテ人に捕らえられたサムソンは、両目をえぐられ牢屋に入れられ、足枷をはめて臼で粉を引く奴隷の扱いを受けることになります。
 自分が無力になってしまったことの意味などについて、牢屋の中でサムソンは色々考え続けただろうと思います。あれだけの怪力が神との約束の中で与えられたものであることを忘れて、元々自分の中にあった才能、実力なのだと勘違いしていたことなどをです。しかし、髪の毛は牢屋の中での生活の中で少しずつ伸びていきます。
 ペリシテ人の領主たちの宴会で見世物としてサムソンは牢屋から呼び出されます。「柱の間に立たされたとき、サムソンは彼の手をつかんでいた若者に、『わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい』と頼んだ。建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。」ここで、サムソンは神の前での謙虚さを取り戻します。「サムソンは主に祈って言った。『わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え』」て欲しいとの祈りによって神は応え、サムソンは荒々しい最期を遂げます。(16:25b-28)
 最後の最後でサムソンは自分の弱さを認めたところにこそ、神の働きのあることが腑に落ちたということでしょう。神に対する切なる信頼が確かなものとされたことです。自らを頼みとする生き方ではなくて、神の前で自らが無力なものであることを認めるところにこそ、神の強さが現れるという、パウロの信仰に通じる生き方が彼の生涯の最後の最後に与えられたのです。
 サムソンは自分の弱さを認める中で、壮絶な最期を遂げました。このサムソンの物語は死をもって終わりましたが、その死の延長線上にある神の示す道の可能性はイエスの生涯において現わされているということです。マタイによる福音書19章の富める青年が悲しみながら立ち去った物語を思い出します。捨てることによって、無力さを獲得することによって神の想いに応えることができるという道です。ここにこそ、<いのち>のつながりがあるのです。

2012年9月16日 (日)

士師記 7章1~7節 「たとえ、少なくても」

 今日のテキストから現代日本におけるメッセージを読み取ることができるとしたら、創造的少数者が神によって立てられ、歴史が変わっていくことへの希望とでも言うべきでしょうか。少ない可能性を選択する、より困難な道をあえて選ぶなど、現代の価値基準と真向に対決するような生き方へと導かれているのを感じます。
 多くの人が動き始めるためには創造的少数者が先駆者として、それぞれの課題を地道に担い続けた現実によって支えられていることを今日は覚えておきたいと願います。
 朝日新聞夕刊の一面に「ニッポン人脈記」という欄があります。 8月末頃からのテーマは「石をうがつ」です。「石をうがつ」とは、ご承知のとおり「雨垂れ石を穿つ」という諺を踏まえています。今回は原子力発電所に対する反対運動を担ってきた創造的少数者たちが取材されています。たとえば、9/6(木)の記事では、大阪の熊取という街にある京都大学の原子炉実験所で「熊取6人組」と呼ばれる小出裕章さんたちを取り上げています。記者の大久保真紀さんは、この回を次のようにまとめています。
  [小出は「原子力政策は戦争のようなもの」と感じる。両方とも国家がやることを決め、社会が一体になって進める。「その時代の中で自分がどう生きたのか、一人ひとりがちゃんと説明できるように生きていきことが大切だ」。小出は、そう思っている。]
 今日の聖書から伺うことができるのは、この歴史において「雨垂れ石を穿つ」創造的少数者が起こされるのだという信が問われているということです。たとえ、どんなに小さな事柄でも参画することで、すでに世界の「いのち」に触れ、結ばれていることを信じることが大切です。
 教会とは、そのようなイエス・キリストの名のもとにある「いのちのつながり」のベースだと考えることもできます。寿地区センターなど様々な活動を担っている団体を覚え献金をする、あるいは権力の暴走に異を唱える署名をする、などギデオンに率いられた少数精鋭部隊の働きの、現代的課題を担っていくことは決して不可能ではないのです。
 主の祈りにある「み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」という言葉のまことを信じ祈るとき、わたしたちはすでに神の国の建設のための少数精鋭の働き人として招かれてしまっているのです。
 この国においてキリスト者は一%にも満たない存在ですが、だからこそ、わたしたちはみこころに委ねつつ、創造的少数者として招かれている事実から目を背けることなく、歩みたいと願います。

2012年9月 9日 (日)

詩編92:13-16 「白髪になっても」

 わたしたちの教えられてきた神は、「栄光に輝く父なる神」、「力強い神」というイメージがあるのですが、神を「母のごと」、「父のごと」、「年老いたもの」、「若さに輝く者」、色々な年代に喩えていく讃美歌があります。364番。その中の4番に注目してみたいと思います。
 神が老いている、その方は、「静かな配慮に満ち、知恵と理解 限りな」いのだと、賛美しています。今日のテキストは基本的には賛美の歌です。ここにあるのは、神に逆らうものが滅びて、神に従うものは祝福されるという物語です。13節から16節は、先程の讃美歌364番の4番によって言われているような、歳を老いていくところに恵みがある。それはこの世の価値判断とは相反するという理解があるのです。
 13節「神に従う人」(「義人」ということ)は、「<なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえ」「主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。」とあります。つまり、神に結ばれている、神との関係において歳を重ねていく一人ひとりにとっては、「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきと」するのです。「老いる」とは、色んな能力が剥ぎ取られて、衰えていくという、この世における価値観とは逆に、余計なものが削ぎ落とされて、よりピュアな純粋なものに、非常にシンプルな信仰になっていくことです。わたしたちの信仰生活では、あれができる、これができるとかが付加価値として自分に与えられていくのですが、そうではなくて、それらが削られていく時に核となるような信仰こそが大切なのです。
 今この世に神によって貸し与えられたいのちが存在しているという事実。それだけですでに神によって祝福されている存在なんだということを感謝をもって受け止めさえすればよいのです。より若い者たちは、自分たちができるとか持っているとかという価値観を相対化し、同じ持たざる者、神の側からすれば無に等しい者として、年老いた者と同列に立ち、お互いの命を尊敬しあいながら、「世話」をする、配慮を持って接するということがお互いに起こりうるということです。しばしば、お見舞いに行って、励ましにいったのに実は励まされて帰ってくるという経験をした方があると思います。ここでは交流が起こるわけです。そのような交流において、わたしたちは高齢者の日にあって、より若い者は高齢者を敬い、高齢者はより若い者に自らを委ねて任せていく、ということができれば、と願います。
 幼子から老人まで、すべての人の命を、その奥底まで見据え、生き抜き、十字架にはりつけられ、よみがえられた主イエス・キリストの力によって今生かされているわたしたちには、いつでもこのような魂の交流が起こりうる、なぜなら神がそれを求めておられるからです。

2012年9月 2日 (日)

ヨシュア記 6章12~21節 「声を合わせて」

 今日のテキストでのキーワードは「鬨の声」です。神の導きのもとで人々が「鬨の声」をあげることによって城壁が崩れていく、神によって歴史が形成されるという聖書の信仰理解が、ここにはあるということです。
 神が具体的に人間の歴史に介入し、イスラエルを救った出来事は、とりわけ出エジプト記において示されています。聖書の証言する神は、ただ手をこまねいている方なのではなくて、歴史を作り出す采配者であるという理解があるのです。今日のテキストにおいては、神の働きと導きのあるところには、民の間に「鬨の声」をあげさせ、城壁を突き破って進むことが、神の事柄として起こるのだという信仰理解があります。
 これを現代の歴史に見ようとするならば、わたしたちは何を考えるのでしょうか?ひとつ例をあげてみれば、いわゆる「ベルリンの壁」は1989年に砕かれ、ドイツは一つの国になりました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:14)が出来事となるのです。エフェソ書の文脈ではキリストの十字架の出来事によってのことですが、中身としては「ベルリンの壁」が壊された出来事と共鳴しています。
 現在進行形の出来事は「首相官邸前」から起こりつつあります。原発に反対する人々の、厚い壁に向かって声をあげる姿。ここに神の導きと守りとを信じたいです。神の言葉によって促され「鬨の声」が巻き起こる時、歴史は変えられていきます、非陶酔的に。
 しかし、住宅街の教会で信仰生活を送るわたしたちがいきなり社会を変革する業のフロントに出ていくのは困難かもしれません。そこで、「声を合わせる」訓練から始めてみるのはどうでしょうか。たとえば、主の祈りや使徒信条など、礼拝堂の中で「声を合わせる」ことから、すなわち人の声を聞くことから始めるのはどうでしょうか。「声を合わせる」ことは、注意を払って耳を澄まし、人の声に耳を傾けることなしにはできません。こうしたことの積み重ねから、「鬨の声」に共鳴する「声を合わせる」ことへと変えられ、やがては教会の声が世界と共鳴する世界観が実現にしていく途上に立つことができていくのではないでしょうか。今日の聖書は、わたしたちをそのような場へと招いているのではないでしょうか。イエス・キリストの導きのもとにあれば「声を合わせる」ことからこの時代に参与していく道がやがて教会に与えられると信じつつ祈りましょう。

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