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2012年8月

2012年8月26日 (日)

出エジプト記 20章12~17節 「<いのち>がつながる」

 キリスト教会は十戒を、あくまで新約におけるキリストから解釈します。つまり、イエス・キリストの福音という出来事から照らされて初めて律法を福音として受けとめることができるのだという立場に立っているということです(イエスを律法の完成として捉えている箇所はマタイ5:17-20)。まず神との関係が正されることによってのみ、人々との関係としての共同性を整えていくところに神の戒めに生きることだという理解があるのです。
 イエスの場合は「隣人」理解がユダヤ人同胞に閉じられてはいないのです。民族性という閉じられた人間関係のありようを乗り越えて「隣人」になっていくことで、<いのち>が繋がっていく道があるのだと示しています。さらに言えば、このユダヤ人同胞という枠を超えて働く「隣人愛」の実践へと展開します(ルカ6:27,35参照)。
 このようなイエスの言葉の持つ社会性から十戒の後半部分の人間関係の形成の方向性を見ていくと、父母に代表される基本的な人間関係から、民族を超えていく「隣人」の関係へと広がり、盗みや偽証することや隣人を貪るということへの禁止がイエスを介して、より広く解釈されることになります。わたしたちの求める世界観や望ましい社会というものは、イエスを介する十戒理解からすれば、お互いの<いのち>を貪るような関係を避けながら、<幸い>というイエスの祝福の言葉によって整えられていくつながりが求められているということになります。
 世界の富を先進国と呼ばれる国々がより弱い国々の分まで奪い尽くすような世界観のただ中にあって、十戒を福音として受けとめ、その戒めに生きようとするキリスト者は、この世の価値観に埋没してはならないと戒めているのではないでしょうか。キリストの眼差しが向かうところに祝福される人々の<いのち>のつながりを示しているのです(ルカ6:2Ⅰ-23参照)。
  東日本大震災以降、言葉は無力になり、崩れていくような感覚に陥る時、今一度イエスから十戒の示す世界観を祈り求めていくところに、キリスト者が神の戒めに生きる道が備えられているのではないでしょうか。まだ実現されてはいないけれど、歩むべき戒めに生きる道はアシジのフランチェスコの「平和を求める祈り」とも共鳴してくるのを感じます。
 イエス自らが律法の完成者、その成就として、わたしたちの前に立ち、イエスご自身が戒めとして立ち振る舞った姿を心に刻みつつ歩むとき、すでにわたしたちは十戒に示されている事柄によって開かれている<いのち>のつながりとしての福音へと招かれてしまっているのです。

2012年8月19日 (日)

出エジプト記20章8~11節 「もっと楽に生きられたら」

 律法とは、神がモーセを介してイスラエルの民に与えられたものですから、もともとは良きものなのです。しかし、やがてイスラエルの歴史の中で形骸化し、イエスの時代には人に喜びを与えるものではなく、却って人を圧迫し苦しめるもとになってしまっていたようです。(マルコ2:23‐28等)
 「安息日は、人のために定められた」という原点に立ち返ることを出エジプト記から共に学びたいと思います。安息日とは、やめるとか離れる、中断するなどの感覚を示します。何かを行なうことではなくて、ただそこにいるだけで、祝福された命がわたしたちのもとにあるという神からの招きとしての自由に触れ、自らを生き返らせる神の働きに委ねることが本来の安息日です。「楽に生きること」の原点です。イスラエルの民がエジプトから脱出したのは、ただ苦しみから逃れるためだけではありません。まことの唯一の神に信じ従う道への招きに応じることでした。それは、中心に礼拝を据えた安息日の復活でした。
 その安息の根拠を出エジプト記では神の天地創造物語においています。創世記の最初にある、言葉による無からの創造が6日間でなされ、7日目に休まれた、安息なさったという点です。この安息こそが大切なのであり、天地創造のピーク、完成があるのです。
 この無為の為を神に倣い、喜ばしい出来事として受けとめ、将来に向かう自由を自己吟味することによって、新たな可能性に開かれていることを感謝と賛美で応えて過ごすのが本来の安息日なのです。ですから、喜ばしい時なのです。日々の暮らしの中に埋もれてしまい、自分たちを見失ってしまう生活を整えるために、安息は神の要求として、わたしたちの前に立ち現れているのです。このためにわたしたちは、日曜礼拝を守るのです。
 ミヒャエル・エンデの著書に「モモ」という作品があります。より良き未来のために人々に時間を貯蓄させ、その時間を盗む「時間どろぼう」から、モモという少女が人々の時間を取り戻す物語です。人々が自分らしさを失っていく仕組みと人間のあるべき姿の回復を提示するこの作品は、主イエスの語った「安息日は、人のために定められた。」という言葉をファンタジーとして、わたしたちに分かりやすく語っているのではないでしょうか。そして、時間を貯蓄することによって、どんどん人々が不機嫌になり、人間関係が壊れていくという描写に注目したいと思います。「時間を節約したら生活は楽になる」ということが幻想だということです。「もっと楽に生きられたら」という願いは誰でも持っています。けれども、そこでとる方向性を間違ってはいけないということです。

2012年8月12日 (日)

ヨハネによる福音書 9章24~39節 「街角のイエス」  大場祐子

 15年か20年も前に見た夢の話です。ある夜、深夜残業を終えて外に出た私の目に、空にはひとつの星も見えませんでした。すると、大通りの角で一人の男性に声をかけられます。「星が見たいのかい?」そういうとその人は、画板にサインペンで星の絵を描き、「さあ、空をもう一度見てごらん」。上を見ると、星がたくさん輝いています。「どうして?さっきはひとつもなかったのに」と聞く私にその人は「星なんてどうせないと思って見たから、見えなかったのさ」「星だけじゃない、人間は何だって好きなものを空に書くことができるんだよ」といいます。「え?そしたら、人間は貪欲だから、みんなが自分勝手なことを書いちゃうのではない?」そう心配する私に、「いやいや、人間はそれほどばかじゃないよ。誰だって空はきれいなままでとっておきたいのさ。だからそんな心配はないのだよ」。そういって描いた星を手でふき取ると、空の星は消え、もとのくすんだ夜空に戻っていました。でも、よくよく見てみると、さっきは気づかなかった小さな星がちらほらと光っています。私はいつしか疲れた重い心も忘れていました。
 これが、私の忘れられない夢の物語です。目が覚めたとき、私はとても感動していました。そして、突然はっと気がついたのです。「そうだ!あの男の人はイエス様だった!」「私はイエス様に重い心を軽くしてもらったのだ」と確信しました。そう心が躍った瞬間、街角のイエスは、私に新しい力を与えてくれるイエス・キリストという存在に変わっていたように思います。主イエスが、疲れた私の心を見透かし、喜ばせてくれ、心を軽くし、人間への不信感を取り除いてくださったのです。その、私へのかかわり方、影響の強さからして、救い主イエス、キリストであったとしか、言いようがないような気がします。
 さて、「ナザレ人イエス」に対して「イエス・キリスト」という呼び方の違いについて、故横田勲牧師は説教集「傍らに立つ者」の中で次のようにいっています。
 「主イエス、あるいはイエス・キリストという場合には、直接的に私の生き方を問い、反省を求め、考え直す視点を提供してくれ、励まし、勇気づけ、圧倒的な力を持って迫る。まさに、絶対的な力を持つ方として言い表す」。「その方の視線によって、わたしが裸にされ、審かれ、赦され、つつまれ、命じられている、その限りでその方を、イエス・キリストと呼びます」。さらに、「主イエスとの出会いは、まずイエスのほうから先鞭がつけられて起こります」とも。聖書の中でイエスを客観的に見ている限りにおいては、主イエスとの出会いは生まれません。今日の聖書で元盲人は主イエスと出会い「主よ、信じます」(38節)と思わず告白しました。「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(37節)という主イエスの言葉は、いま私たちに向けられているのではないでしょうか。

2012年8月 5日 (日)

出エジプト記 20章1~7節 「神の誡めに生きる」

 イエス・キリストにおいて示される神は自らを顕すことによって、信じて従うことを求めておられ、共に生きてくださる方です。聴く者は、ただその招きに応えゆく道を歩むように導かれるのです。では、どのように生きたらいいのか、自らを顕す神の思いに応えていくためには、神の語りかける生き方に絶えず立ち返り、修正していく基準が必要です。
 今日の聖書は平和を実現していくキリスト者の生き方の基本が書かれています。ここに留まるしか、道はないのです。今日の聖書は、神は自らがどのような神なのかを表明します。恵みをもって救いの業を成し遂げるのだとの宣言が、ここにはあります。救い出してくださった方だけを神とし、他の神々を認めない生き方こそが神に向かって生きる道であるとの誡めが与えられるのです。他の神々を拝む生き方は、戻ってはならないエジプトに魂を売り渡してしまうことと別のことではありません。出エジプト記を通して読むと、神に対する不平不満の動機、裏切りの動機がイスラエルの民の中に絶えず立ち現れてきます。しかし、それでも根気よく粘り強く導く神の言葉は、さらに際立ってきます。
 わたしたち日本基督教団の歴史は、そのようなイスラエルの神に対する不平不満の動機、裏切りの動機と決して無縁ではありませんでした。そもそもの教団成立からしてそうだったのです(「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」参照)。神の誡めを福音として受けとめていなかったという決定的な神学的欠陥が戦時下における教団にはあったのです。とりわけ、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」から、まず逸脱していた事実は否定しようがありません。絶対天皇制としての国家にすりよることで、形としての教会を維持する保身が確実にあったのです。
 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という誡めに生きることこそが、平和の主イエス・キリストの誡めに生きることです(「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」「神学的公理としての第一誡」参照)。わたしたちは、主イエス・キリストによって解放されているのですから、二度とエジプトの軛につながれてはなりません。教団の1941年合同は、帰ることを願ったり憧れたりしてはならないエジプトなのです。
 第一誡を前にしてまことの神に絶えず立ち返ることによってこそ「平和を実現する者」へと変えられていくのです。ここに、平和聖日において神と対話していく土台と原則が備えられているのです。わたしたちは、第一誡を自ら生き抜いたイエス・キリストの道に固く留まる決意へと促されていることに集中すべきなのです。ここから、平和を求める祈りをもって、この世を旅する群れとして歩んでいきましょう。

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