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2012年8月12日 (日)

ヨハネによる福音書 9章24~39節 「街角のイエス」  大場祐子

 15年か20年も前に見た夢の話です。ある夜、深夜残業を終えて外に出た私の目に、空にはひとつの星も見えませんでした。すると、大通りの角で一人の男性に声をかけられます。「星が見たいのかい?」そういうとその人は、画板にサインペンで星の絵を描き、「さあ、空をもう一度見てごらん」。上を見ると、星がたくさん輝いています。「どうして?さっきはひとつもなかったのに」と聞く私にその人は「星なんてどうせないと思って見たから、見えなかったのさ」「星だけじゃない、人間は何だって好きなものを空に書くことができるんだよ」といいます。「え?そしたら、人間は貪欲だから、みんなが自分勝手なことを書いちゃうのではない?」そう心配する私に、「いやいや、人間はそれほどばかじゃないよ。誰だって空はきれいなままでとっておきたいのさ。だからそんな心配はないのだよ」。そういって描いた星を手でふき取ると、空の星は消え、もとのくすんだ夜空に戻っていました。でも、よくよく見てみると、さっきは気づかなかった小さな星がちらほらと光っています。私はいつしか疲れた重い心も忘れていました。
 これが、私の忘れられない夢の物語です。目が覚めたとき、私はとても感動していました。そして、突然はっと気がついたのです。「そうだ!あの男の人はイエス様だった!」「私はイエス様に重い心を軽くしてもらったのだ」と確信しました。そう心が躍った瞬間、街角のイエスは、私に新しい力を与えてくれるイエス・キリストという存在に変わっていたように思います。主イエスが、疲れた私の心を見透かし、喜ばせてくれ、心を軽くし、人間への不信感を取り除いてくださったのです。その、私へのかかわり方、影響の強さからして、救い主イエス、キリストであったとしか、言いようがないような気がします。
 さて、「ナザレ人イエス」に対して「イエス・キリスト」という呼び方の違いについて、故横田勲牧師は説教集「傍らに立つ者」の中で次のようにいっています。
 「主イエス、あるいはイエス・キリストという場合には、直接的に私の生き方を問い、反省を求め、考え直す視点を提供してくれ、励まし、勇気づけ、圧倒的な力を持って迫る。まさに、絶対的な力を持つ方として言い表す」。「その方の視線によって、わたしが裸にされ、審かれ、赦され、つつまれ、命じられている、その限りでその方を、イエス・キリストと呼びます」。さらに、「主イエスとの出会いは、まずイエスのほうから先鞭がつけられて起こります」とも。聖書の中でイエスを客観的に見ている限りにおいては、主イエスとの出会いは生まれません。今日の聖書で元盲人は主イエスと出会い「主よ、信じます」(38節)と思わず告白しました。「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(37節)という主イエスの言葉は、いま私たちに向けられているのではないでしょうか。

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