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2012年8月19日 (日)

出エジプト記20章8~11節 「もっと楽に生きられたら」

 律法とは、神がモーセを介してイスラエルの民に与えられたものですから、もともとは良きものなのです。しかし、やがてイスラエルの歴史の中で形骸化し、イエスの時代には人に喜びを与えるものではなく、却って人を圧迫し苦しめるもとになってしまっていたようです。(マルコ2:23‐28等)
 「安息日は、人のために定められた」という原点に立ち返ることを出エジプト記から共に学びたいと思います。安息日とは、やめるとか離れる、中断するなどの感覚を示します。何かを行なうことではなくて、ただそこにいるだけで、祝福された命がわたしたちのもとにあるという神からの招きとしての自由に触れ、自らを生き返らせる神の働きに委ねることが本来の安息日です。「楽に生きること」の原点です。イスラエルの民がエジプトから脱出したのは、ただ苦しみから逃れるためだけではありません。まことの唯一の神に信じ従う道への招きに応じることでした。それは、中心に礼拝を据えた安息日の復活でした。
 その安息の根拠を出エジプト記では神の天地創造物語においています。創世記の最初にある、言葉による無からの創造が6日間でなされ、7日目に休まれた、安息なさったという点です。この安息こそが大切なのであり、天地創造のピーク、完成があるのです。
 この無為の為を神に倣い、喜ばしい出来事として受けとめ、将来に向かう自由を自己吟味することによって、新たな可能性に開かれていることを感謝と賛美で応えて過ごすのが本来の安息日なのです。ですから、喜ばしい時なのです。日々の暮らしの中に埋もれてしまい、自分たちを見失ってしまう生活を整えるために、安息は神の要求として、わたしたちの前に立ち現れているのです。このためにわたしたちは、日曜礼拝を守るのです。
 ミヒャエル・エンデの著書に「モモ」という作品があります。より良き未来のために人々に時間を貯蓄させ、その時間を盗む「時間どろぼう」から、モモという少女が人々の時間を取り戻す物語です。人々が自分らしさを失っていく仕組みと人間のあるべき姿の回復を提示するこの作品は、主イエスの語った「安息日は、人のために定められた。」という言葉をファンタジーとして、わたしたちに分かりやすく語っているのではないでしょうか。そして、時間を貯蓄することによって、どんどん人々が不機嫌になり、人間関係が壊れていくという描写に注目したいと思います。「時間を節約したら生活は楽になる」ということが幻想だということです。「もっと楽に生きられたら」という願いは誰でも持っています。けれども、そこでとる方向性を間違ってはいけないということです。

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