出エジプト記 20章1~7節 「神の誡めに生きる」
イエス・キリストにおいて示される神は自らを顕すことによって、信じて従うことを求めておられ、共に生きてくださる方です。聴く者は、ただその招きに応えゆく道を歩むように導かれるのです。では、どのように生きたらいいのか、自らを顕す神の思いに応えていくためには、神の語りかける生き方に絶えず立ち返り、修正していく基準が必要です。
今日の聖書は平和を実現していくキリスト者の生き方の基本が書かれています。ここに留まるしか、道はないのです。今日の聖書は、神は自らがどのような神なのかを表明します。恵みをもって救いの業を成し遂げるのだとの宣言が、ここにはあります。救い出してくださった方だけを神とし、他の神々を認めない生き方こそが神に向かって生きる道であるとの誡めが与えられるのです。他の神々を拝む生き方は、戻ってはならないエジプトに魂を売り渡してしまうことと別のことではありません。出エジプト記を通して読むと、神に対する不平不満の動機、裏切りの動機がイスラエルの民の中に絶えず立ち現れてきます。しかし、それでも根気よく粘り強く導く神の言葉は、さらに際立ってきます。
わたしたち日本基督教団の歴史は、そのようなイスラエルの神に対する不平不満の動機、裏切りの動機と決して無縁ではありませんでした。そもそもの教団成立からしてそうだったのです(「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」参照)。神の誡めを福音として受けとめていなかったという決定的な神学的欠陥が戦時下における教団にはあったのです。とりわけ、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」から、まず逸脱していた事実は否定しようがありません。絶対天皇制としての国家にすりよることで、形としての教会を維持する保身が確実にあったのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という誡めに生きることこそが、平和の主イエス・キリストの誡めに生きることです(「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」「神学的公理としての第一誡」参照)。わたしたちは、主イエス・キリストによって解放されているのですから、二度とエジプトの軛につながれてはなりません。教団の1941年合同は、帰ることを願ったり憧れたりしてはならないエジプトなのです。
第一誡を前にしてまことの神に絶えず立ち返ることによってこそ「平和を実現する者」へと変えられていくのです。ここに、平和聖日において神と対話していく土台と原則が備えられているのです。わたしたちは、第一誡を自ら生き抜いたイエス・キリストの道に固く留まる決意へと促されていることに集中すべきなのです。ここから、平和を求める祈りをもって、この世を旅する群れとして歩んでいきましょう。
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