出エジプト記 20章12~17節 「<いのち>がつながる」
キリスト教会は十戒を、あくまで新約におけるキリストから解釈します。つまり、イエス・キリストの福音という出来事から照らされて初めて律法を福音として受けとめることができるのだという立場に立っているということです(イエスを律法の完成として捉えている箇所はマタイ5:17-20)。まず神との関係が正されることによってのみ、人々との関係としての共同性を整えていくところに神の戒めに生きることだという理解があるのです。
イエスの場合は「隣人」理解がユダヤ人同胞に閉じられてはいないのです。民族性という閉じられた人間関係のありようを乗り越えて「隣人」になっていくことで、<いのち>が繋がっていく道があるのだと示しています。さらに言えば、このユダヤ人同胞という枠を超えて働く「隣人愛」の実践へと展開します(ルカ6:27,35参照)。
このようなイエスの言葉の持つ社会性から十戒の後半部分の人間関係の形成の方向性を見ていくと、父母に代表される基本的な人間関係から、民族を超えていく「隣人」の関係へと広がり、盗みや偽証することや隣人を貪るということへの禁止がイエスを介して、より広く解釈されることになります。わたしたちの求める世界観や望ましい社会というものは、イエスを介する十戒理解からすれば、お互いの<いのち>を貪るような関係を避けながら、<幸い>というイエスの祝福の言葉によって整えられていくつながりが求められているということになります。
世界の富を先進国と呼ばれる国々がより弱い国々の分まで奪い尽くすような世界観のただ中にあって、十戒を福音として受けとめ、その戒めに生きようとするキリスト者は、この世の価値観に埋没してはならないと戒めているのではないでしょうか。キリストの眼差しが向かうところに祝福される人々の<いのち>のつながりを示しているのです(ルカ6:2Ⅰ-23参照)。
東日本大震災以降、言葉は無力になり、崩れていくような感覚に陥る時、今一度イエスから十戒の示す世界観を祈り求めていくところに、キリスト者が神の戒めに生きる道が備えられているのではないでしょうか。まだ実現されてはいないけれど、歩むべき戒めに生きる道はアシジのフランチェスコの「平和を求める祈り」とも共鳴してくるのを感じます。
イエス自らが律法の完成者、その成就として、わたしたちの前に立ち、イエスご自身が戒めとして立ち振る舞った姿を心に刻みつつ歩むとき、すでにわたしたちは十戒に示されている事柄によって開かれている<いのち>のつながりとしての福音へと招かれてしまっているのです。
« 出エジプト記20章8~11節 「もっと楽に生きられたら」 | トップページ | ヨシュア記 6章12~21節 「声を合わせて」 »
「出エジプト記」カテゴリの記事
- 出エジプト記 20章2~6節 「神は神であるから」(2024.02.11)
- 出エジプト記 34章8~9節 「支えあって生きるため」(2014.10.26)
- 出エジプト記 32章1~14節 「先立つ神」(2013.03.31)
- 出エジプト記16章1~18節 「日毎の糧は」(2013.03.24)
- 出エジプト記12:29-42「切迫の中に守りがある」(2013.03.10)
« 出エジプト記20章8~11節 「もっと楽に生きられたら」 | トップページ | ヨシュア記 6章12~21節 「声を合わせて」 »
コメント