創世記 6章5~22 「虹の約束」
「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。この「無垢」に集中していきたいと思います。この場合、わたしたちが通常抱く「無垢」、純真であるとか穢れがないとかいう意味での「無垢」はひとまず置いて、粗削りな状態、剥き出しの命が露わにされている状態のことと捉えることで、イメージを整理するところから始めたいと思います。
この「無垢」という言葉ですが、英語でいうとイノセンスになります。芹沢俊介という評論家の「現代<こども>暴力論」によれば、無垢性というものは、たとえば子どもが自分の意志に関係なくこの世に生まれてくるところの受動性、そこにおける無責任性、暴力的な仕方で幾重にも与えられている不自由さ、これらを意味します。子どもは根源的に幾重にもわたって受身である、と。
この根源的なあり方は、あらゆる行動の責任を問われることがないということです。子どもがおとなに成熟していくためには、そのイノセンス、無垢さを自ら引き受けることにおいて、イノセンスを捨てていくことによって肯定する方向へと論を展開します。受けとめられている安心感の中で、自らのエゴイズムを表出することによって、暴力的なイノセンスを捨てられることによって成熟していくという道筋です。そこにおいてイノセンス、「無垢さ」というものをもって差し向うことができる神との関係であるか否かによって、その後の生き方が変わってくるのです。
ノアの場合は、神が言われた命令に対して逡巡する中で、おそらく色々な祈りの中で、神に対して様々な不安や不満を抱えながらも、多分イノセンスを表出し、それが肯定されるという経験をした人だからこそ、無垢な人だったのです。神が呼びかけ、応えていく時、わたしたちは神に対して抗う自由を持っています。その抗う自由における無垢さを自由に表出していくことなしに、神に対する従順というものはあり得ない。神の呼ばわりに対して自分の持っているエゴイズムというものを表出していくことなしに、神の無垢さに寄り添う道は多分ないだろうと思います。
主イエス・キリストにおけるイノセンスの表出は十字架の出来事を目前にして語られた言葉に表されています。二か所あります(マルコ14:32-36、15:33-38)。ここにおいて表わされているのは、それを表出することによって神がよしとされ、受け入れるということによって、イノセンスが捨てられて、つまり人の持っている「暴力的な無垢さ」が神によって変えられて「聖い無垢さ」へと転じていくのです。このことによって神が招き、人がそれに対して信じ答え歩んでいく道筋があるということです。
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