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2012年7月 8日 (日)

創世記 9章1~17節  「虹の約束Ⅱ」

 ノアの洪水物語というのは、神が心を痛め、創造の業を後悔することから始まります。しかし、洪水の前と後では神の思いが変わってきています。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。(8:21-22)」と。
 創世記の洪水物語は、南王国ユダのバビロン捕囚を前提に書かれています。バビロニアは、最高神マルドゥクを頂点にしたピラミッドになっています。バビロニアの創世神話は神々のピラミッド体系の中で人は奴隷として創られています。一方、旧約聖書場合では、人は神のパートナーとして創られているのです。
 バビロニア社会に対する批判が旧約聖書にはあります。バビロニアの社会は非常に強力で堅固な差別性をもったものでした。神々の階級性というのは、人間社会に投影されますから、人間は同じように王を中心として階級がピラミッドになっているのです。社会的な身分、その差によって人間が人間を支配する、抑圧する、圧迫する。君臨している王のもとで奴隷として働かされているのです。権力によって人間の命をいつでも取る、あるいは貶める世界観があるのです。
 現実には暴力が満ち満ちていて、血で血を洗うような混乱が日常茶飯事であるバビロニア社会にあって、自分たちの神、神の支配、神の国とは、そうではないのだと述べようとしているわけです。「人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」けれども旧約聖書の神は「もう二度としない」と決意します。
 神の後悔のもとで、残された者たちが産めよ増えよ地に満ちよ、と祝福されます。さらに「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。( 9:6)」これは争いによって人が人を傷つけ、また殺していくようなあり方ではなくて、神がその憐れみにおいて残されたものに託された使命というのは、人は神になろうなどとは思わず人として生き、倫理的な価値観を持ちながら歩んでいけ、という促しです。「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。(9:10)」には大地は主のものであるということを神が貫かれたことを契約において表わしています。もう洪水によって地を滅ぼすことはないとは、どのようなことがあっても守るのだというのです。この契約を受け入れたノアとその子孫は、人間と神との関係だけではなくて、全環境、地球規模における命を保全していく使命が与えられているという確認がここでなされています。洪水後のノアとその子孫には、全環境的な契約が立てられているわけですから、倫理として、この環境を守っていく、保全していく役割が与えられているのだということです。ここに虹の約束に与りつつ歩む、わたしたちの生き方が示されています。

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