創世記 15章1~7節 「展望」
アブラムには悩みがありました。それは子孫の繁栄が神の祝福を意味する時代に子どもがいない現実です。それに対する回答が今日の聖書の冒頭です。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』」(15:1)
アブラムが神によって守られている、その約束は決して無効になっていない、たとえどのような不安や失望や疑いのただ中にあっても神は神であり続けるのだという、その神の決意が述べられているのです。アブラムの不満の訴えに神はさらなる回答を与えます。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(15:4-5)と。まだ見ぬものを信じていく中で神の備えに委ねていくのがアブラムの生涯です。
そのアブラムが生きた生き方というものをキリスト教徒はパウロを介して理解することが多いと思います。わたしたちは儚く、脆い土の器、そのようにコリントの信徒への手紙二の4章では述べられています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(Ⅱコリント4:7)
神の導きの力が、このみすぼらしいわたしたちの肉体にも宿っているのです。飼い葉桶の幼子として寝かされているのと同じ、十字架にはりつけられた肉体と同じ儚さをもった土の器として、わたしたちも生かされています。アブラムにおいて示された神の約束は、イエス・キリストにおいて成就しています。なので、どのような状況があっても耐えうるし、絶望に陥ることなく将来への展望がいつも備えられているという希望のうちに聖書の語りかけを聞く者は赦されています。このことをパウロは土の器のテキストの直前で語ります(Ⅱコリント4:1-6参照)。
アブラムに見せた星々の輝き、それはわたしたちにおいては「闇から光が輝き出よ」と呼ばれたところの天地創造の神の出来事と決して別のことではありません。わたしたちはイエス・キリストをとおしてアブラムの生涯を顧みる時に、わたしたちがどのような失望や疑いや迷いの中にあって、悩みの中で溺れそうになっても、それをイエス・キリストの神はアブラムを支えられたように必ず助け守り導き、神の側に向かって「イエス・キリストにおいて受け入れられていることを受け入れるところの信仰」の道を歩むことへと、今日もわたしたちに促がしているのだと確認しましょう。
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