創世記32章23~32節 「神は人の生き方を変える」
今日の聖書ではヤコブが神と格闘したことが描かれています。ヤコブは「祝福してくださるまで離しません」と一歩も引きさがらず、そして祝福が与えられます。しかし同時に、腿を痛め、足を引きずらなくてはならない傷を負います。
このヤコブの格闘は、神の側から襲い掛かってくることへの応答として格闘せざるを得ないところに追い込まれていく人間の姿を象徴しています。そして、ヤコブの「祝福してくださるまで離しません」との粘り強い闘いは、故鈴木正久牧師の「涙を流しながら祈った者でなければ信仰は理解できない」といった姿につながってくるのではないでしょうか。そこで明らかにされていくのは、人は神の側からの働きかけで変えられるということです。傷が与えられることによって自らを相対化して見つめ、同時に肯定されている自分を再発見し、素直に生きていく方向が与えられるのだということです。
ヤコブはペヌエルでの格闘によって与えられた体の痛みにより、つまり腑に落ちる体験を経て、兄であるエサウに対する様々な不安や恐れなどから自由にされます。正直に詫びることから和解へと至り、理解し合える関係を創りだしていくことへと導かれていったのでした。
神は恵みをもって人に襲い掛かるようにして関わりを求めてくださる方です。神の恵みは、わたしたちに都合のよい機械仕掛けではありませんから、試みや誘惑に思えることが多々あります。しかし、守りの確かさに委ねて「祝福してくださるまで離しません」と粘り強く応答していったヤコブの態度は、神への応答としてのわたしたちの祈りの姿を教えています。祝福によって傷や弱さが与えられることによって、わたしたちは神に喜ばれる素直さへと導かれていくことができるし、弱さを弱さとして認めることによって、神に祝福されている実感へと促されていくのです。
このような神の支えをパウロはコリントの信徒への手紙二12章6‐10節で「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と表明しています。
ヤコブの腿の傷やパウロのとげに相当するものを、わたしたちもあたえられていないでしょうか。もし、これと思うものがあるなら感謝の祈りをささげつつ歩んでいきましょう。心当たりがないのであれば、襲い掛かってくる神の恵みが聖書を通して語られていることを確認しながら、神と格闘しつつ腑に落ちるまで祈り続けていきましょう。
いずれにせよ、わたしたちは既に神の言葉に打たれてしまっているのですから、「神は人の生き方を変える」ことへと信頼し続けていけばいいのです。
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