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2012年7月

2012年7月29日 (日)

創世記32章23~32節 「神は人の生き方を変える」

 今日の聖書ではヤコブが神と格闘したことが描かれています。ヤコブは「祝福してくださるまで離しません」と一歩も引きさがらず、そして祝福が与えられます。しかし同時に、腿を痛め、足を引きずらなくてはならない傷を負います。
 このヤコブの格闘は、神の側から襲い掛かってくることへの応答として格闘せざるを得ないところに追い込まれていく人間の姿を象徴しています。そして、ヤコブの「祝福してくださるまで離しません」との粘り強い闘いは、故鈴木正久牧師の「涙を流しながら祈った者でなければ信仰は理解できない」といった姿につながってくるのではないでしょうか。そこで明らかにされていくのは、人は神の側からの働きかけで変えられるということです。傷が与えられることによって自らを相対化して見つめ、同時に肯定されている自分を再発見し、素直に生きていく方向が与えられるのだということです。
 ヤコブはペヌエルでの格闘によって与えられた体の痛みにより、つまり腑に落ちる体験を経て、兄であるエサウに対する様々な不安や恐れなどから自由にされます。正直に詫びることから和解へと至り、理解し合える関係を創りだしていくことへと導かれていったのでした。
 神は恵みをもって人に襲い掛かるようにして関わりを求めてくださる方です。神の恵みは、わたしたちに都合のよい機械仕掛けではありませんから、試みや誘惑に思えることが多々あります。しかし、守りの確かさに委ねて「祝福してくださるまで離しません」と粘り強く応答していったヤコブの態度は、神への応答としてのわたしたちの祈りの姿を教えています。祝福によって傷や弱さが与えられることによって、わたしたちは神に喜ばれる素直さへと導かれていくことができるし、弱さを弱さとして認めることによって、神に祝福されている実感へと促されていくのです。
 このような神の支えをパウロはコリントの信徒への手紙二12章6‐10節で「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と表明しています。
 ヤコブの腿の傷やパウロのとげに相当するものを、わたしたちもあたえられていないでしょうか。もし、これと思うものがあるなら感謝の祈りをささげつつ歩んでいきましょう。心当たりがないのであれば、襲い掛かってくる神の恵みが聖書を通して語られていることを確認しながら、神と格闘しつつ腑に落ちるまで祈り続けていきましょう。
 いずれにせよ、わたしたちは既に神の言葉に打たれてしまっているのですから、「神は人の生き方を変える」ことへと信頼し続けていけばいいのです。

2012年7月22日 (日)

創世記22章1~19節  「備えられた道」

 この箇所は、アブラハムの信仰深さが語られることが多いのですが、今日はイサクの信仰に焦点を当てたいと思います。
 わたしたちは新約の民ですから、旧約を読むときにも絶えず新約の支えにおいて読んでいます。愛する独り子イサクをささげていくアブラハム信仰は、「父なる神」が独り子イエス・キリストをこの世にたまわったことの先取りとして、実は神ご自身の信仰の表れを予め描いている物語として読むことができます(ヘブライ11:1-3参照)。
 つまり、神ご自身が自らの愛する独り子イエスを生贄の小羊としてとして屠る、その出来事こそが、アブラハムとイサクの物語において示されている信仰のあり方、それも父と子の信仰的な共鳴があると思われます(ヨハネ3:16参照)。そのことが貫かれているのがマルコのゲッセマネの出来事です。そしてイサクの信仰的態度に相当する言葉というのが、イエスのゲッセマネでの祈りです(マルコ14:32-36参照)。
 アブラハムがイサクを屠る時のイサクの心境ないしは信仰というものは、実の父に殺されていくということが分かっていながら、「 御心に適うことが行われますように」という言葉に賭けていく生き方です。これは、イエス・キリストの受肉と十字架の出来事、神によって十字架が受け入れられているということをイエスが受け入れる仕方で「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったことと相似形を成しています。
 この祈りからアブラハムとイサクの物語を読みかえしていくのであれば、この悲惨な、そして残酷な物語を通してわたしたちは「主の山に備えあり」という言葉が光を放ち始めるのを聞くことができるわけなのです。イエス・キリストが神によって捨てられるようにして生贄として屠られる。そのイエスが自らの運命を「御心に適うことが行われますように」と受け入れていくのです。その姿勢を直視することにおいて、小羊としてささげられ屠られていくイエスから照らされた、アブラハムがイサクをささげる姿を、感謝をもって顧みることができる、そういう信仰が用意されている。この道筋を辿っていくならば、わたしたちは自らが犠牲を払わなければならないような状況に追い込まれていったとしても、「主の山に備えあり」という言葉の重さと、そこに示されているところの希望に与ることができると今日の聖書を読むことができるわけです。

2012年7月15日 (日)

創世記 15章1~7節  「展望」

 アブラムには悩みがありました。それは子孫の繁栄が神の祝福を意味する時代に子どもがいない現実です。それに対する回答が今日の聖書の冒頭です。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』」(15:1)
 アブラムが神によって守られている、その約束は決して無効になっていない、たとえどのような不安や失望や疑いのただ中にあっても神は神であり続けるのだという、その神の決意が述べられているのです。アブラムの不満の訴えに神はさらなる回答を与えます。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(15:4-5)と。まだ見ぬものを信じていく中で神の備えに委ねていくのがアブラムの生涯です。
 そのアブラムが生きた生き方というものをキリスト教徒はパウロを介して理解することが多いと思います。わたしたちは儚く、脆い土の器、そのようにコリントの信徒への手紙二の4章では述べられています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(Ⅱコリント4:7)
 神の導きの力が、このみすぼらしいわたしたちの肉体にも宿っているのです。飼い葉桶の幼子として寝かされているのと同じ、十字架にはりつけられた肉体と同じ儚さをもった土の器として、わたしたちも生かされています。アブラムにおいて示された神の約束は、イエス・キリストにおいて成就しています。なので、どのような状況があっても耐えうるし、絶望に陥ることなく将来への展望がいつも備えられているという希望のうちに聖書の語りかけを聞く者は赦されています。このことをパウロは土の器のテキストの直前で語ります(Ⅱコリント4:1-6参照)。
 アブラムに見せた星々の輝き、それはわたしたちにおいては「闇から光が輝き出よ」と呼ばれたところの天地創造の神の出来事と決して別のことではありません。わたしたちはイエス・キリストをとおしてアブラムの生涯を顧みる時に、わたしたちがどのような失望や疑いや迷いの中にあって、悩みの中で溺れそうになっても、それをイエス・キリストの神はアブラムを支えられたように必ず助け守り導き、神の側に向かって「イエス・キリストにおいて受け入れられていることを受け入れるところの信仰」の道を歩むことへと、今日もわたしたちに促がしているのだと確認しましょう。

2012年7月 8日 (日)

創世記 9章1~17節  「虹の約束Ⅱ」

 ノアの洪水物語というのは、神が心を痛め、創造の業を後悔することから始まります。しかし、洪水の前と後では神の思いが変わってきています。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。(8:21-22)」と。
 創世記の洪水物語は、南王国ユダのバビロン捕囚を前提に書かれています。バビロニアは、最高神マルドゥクを頂点にしたピラミッドになっています。バビロニアの創世神話は神々のピラミッド体系の中で人は奴隷として創られています。一方、旧約聖書場合では、人は神のパートナーとして創られているのです。
 バビロニア社会に対する批判が旧約聖書にはあります。バビロニアの社会は非常に強力で堅固な差別性をもったものでした。神々の階級性というのは、人間社会に投影されますから、人間は同じように王を中心として階級がピラミッドになっているのです。社会的な身分、その差によって人間が人間を支配する、抑圧する、圧迫する。君臨している王のもとで奴隷として働かされているのです。権力によって人間の命をいつでも取る、あるいは貶める世界観があるのです。
 現実には暴力が満ち満ちていて、血で血を洗うような混乱が日常茶飯事であるバビロニア社会にあって、自分たちの神、神の支配、神の国とは、そうではないのだと述べようとしているわけです。「人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」けれども旧約聖書の神は「もう二度としない」と決意します。
 神の後悔のもとで、残された者たちが産めよ増えよ地に満ちよ、と祝福されます。さらに「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。( 9:6)」これは争いによって人が人を傷つけ、また殺していくようなあり方ではなくて、神がその憐れみにおいて残されたものに託された使命というのは、人は神になろうなどとは思わず人として生き、倫理的な価値観を持ちながら歩んでいけ、という促しです。「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。(9:10)」には大地は主のものであるということを神が貫かれたことを契約において表わしています。もう洪水によって地を滅ぼすことはないとは、どのようなことがあっても守るのだというのです。この契約を受け入れたノアとその子孫は、人間と神との関係だけではなくて、全環境、地球規模における命を保全していく使命が与えられているという確認がここでなされています。洪水後のノアとその子孫には、全環境的な契約が立てられているわけですから、倫理として、この環境を守っていく、保全していく役割が与えられているのだということです。ここに虹の約束に与りつつ歩む、わたしたちの生き方が示されています。

2012年7月 1日 (日)

創世記 6章5~22 「虹の約束」

 「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。この「無垢」に集中していきたいと思います。この場合、わたしたちが通常抱く「無垢」、純真であるとか穢れがないとかいう意味での「無垢」はひとまず置いて、粗削りな状態、剥き出しの命が露わにされている状態のことと捉えることで、イメージを整理するところから始めたいと思います。
 この「無垢」という言葉ですが、英語でいうとイノセンスになります。芹沢俊介という評論家の「現代<こども>暴力論」によれば、無垢性というものは、たとえば子どもが自分の意志に関係なくこの世に生まれてくるところの受動性、そこにおける無責任性、暴力的な仕方で幾重にも与えられている不自由さ、これらを意味します。子どもは根源的に幾重にもわたって受身である、と。
 この根源的なあり方は、あらゆる行動の責任を問われることがないということです。子どもがおとなに成熟していくためには、そのイノセンス、無垢さを自ら引き受けることにおいて、イノセンスを捨てていくことによって肯定する方向へと論を展開します。受けとめられている安心感の中で、自らのエゴイズムを表出することによって、暴力的なイノセンスを捨てられることによって成熟していくという道筋です。そこにおいてイノセンス、「無垢さ」というものをもって差し向うことができる神との関係であるか否かによって、その後の生き方が変わってくるのです。
 ノアの場合は、神が言われた命令に対して逡巡する中で、おそらく色々な祈りの中で、神に対して様々な不安や不満を抱えながらも、多分イノセンスを表出し、それが肯定されるという経験をした人だからこそ、無垢な人だったのです。神が呼びかけ、応えていく時、わたしたちは神に対して抗う自由を持っています。その抗う自由における無垢さを自由に表出していくことなしに、神に対する従順というものはあり得ない。神の呼ばわりに対して自分の持っているエゴイズムというものを表出していくことなしに、神の無垢さに寄り添う道は多分ないだろうと思います。
 主イエス・キリストにおけるイノセンスの表出は十字架の出来事を目前にして語られた言葉に表されています。二か所あります(マルコ14:32-36、15:33-38)。ここにおいて表わされているのは、それを表出することによって神がよしとされ、受け入れるということによって、イノセンスが捨てられて、つまり人の持っている「暴力的な無垢さ」が神によって変えられて「聖い無垢さ」へと転じていくのです。このことによって神が招き、人がそれに対して信じ答え歩んでいく道筋があるということです。

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