創世記22章1~19節 「備えられた道」
この箇所は、アブラハムの信仰深さが語られることが多いのですが、今日はイサクの信仰に焦点を当てたいと思います。
わたしたちは新約の民ですから、旧約を読むときにも絶えず新約の支えにおいて読んでいます。愛する独り子イサクをささげていくアブラハム信仰は、「父なる神」が独り子イエス・キリストをこの世にたまわったことの先取りとして、実は神ご自身の信仰の表れを予め描いている物語として読むことができます(ヘブライ11:1-3参照)。
つまり、神ご自身が自らの愛する独り子イエスを生贄の小羊としてとして屠る、その出来事こそが、アブラハムとイサクの物語において示されている信仰のあり方、それも父と子の信仰的な共鳴があると思われます(ヨハネ3:16参照)。そのことが貫かれているのがマルコのゲッセマネの出来事です。そしてイサクの信仰的態度に相当する言葉というのが、イエスのゲッセマネでの祈りです(マルコ14:32-36参照)。
アブラハムがイサクを屠る時のイサクの心境ないしは信仰というものは、実の父に殺されていくということが分かっていながら、「 御心に適うことが行われますように」という言葉に賭けていく生き方です。これは、イエス・キリストの受肉と十字架の出来事、神によって十字架が受け入れられているということをイエスが受け入れる仕方で「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったことと相似形を成しています。
この祈りからアブラハムとイサクの物語を読みかえしていくのであれば、この悲惨な、そして残酷な物語を通してわたしたちは「主の山に備えあり」という言葉が光を放ち始めるのを聞くことができるわけなのです。イエス・キリストが神によって捨てられるようにして生贄として屠られる。そのイエスが自らの運命を「御心に適うことが行われますように」と受け入れていくのです。その姿勢を直視することにおいて、小羊としてささげられ屠られていくイエスから照らされた、アブラハムがイサクをささげる姿を、感謝をもって顧みることができる、そういう信仰が用意されている。この道筋を辿っていくならば、わたしたちは自らが犠牲を払わなければならないような状況に追い込まれていったとしても、「主の山に備えあり」という言葉の重さと、そこに示されているところの希望に与ることができると今日の聖書を読むことができるわけです。
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