マタイによる福音書 5章38~48節 「大切なこと」
わたしたちが生きていく時に大切な目に見えない道具があります。それは「?」です。イエスは「?」をいつも心の中に持つことで、問いを立てて考えて答えを探していきました。どうしたらもっと人間は人間として喜んで暮らしていけるものだろうか、と。そうして考えていく中で常識とか習慣というものを一回受け止めながら、疑いつつ考えました。
「目には目を、歯には歯を」は当時の律法で「同害報復」、元々仕返しをし過ぎないための教えだったのです。周りを見ると、ローマの軍隊が大勢でやりたい放題威張り散らしているのです。ローマの兵隊に一回殴られたとして、殴り返したら、もしかしたら殺されてしまうことがあるかもしれない。「同害報復」で応えることさえできないような状態があって、すでに不平等な世界なのです。
悪人というのはローマの兵隊です。「右のほほを打たれたら左の頬を向けよ」。右の頬を打つためには手の甲で打つことになります。手のひらで触るのはけがらわしいから、軽蔑の意味を込めるのです。あるいは、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(5:40)」とあります。下着というのは、当時、普段着のことを指します。上着というのはコート、あるいは毛布、シュラフに近いものです。律法によれば借金のカタに上着をとったとしてもその日の内に返さなくてならない、とあります(生死に関わるからでしょう)。それ以上のことをやってやれ、という反逆のデモンストレーションです。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(5:41)」も同様です。そのまま言うことを聞くのではなくて、権力を持つ人たちに対してどのように接したらいいのかと問いの中から知恵を振り絞るのです。死んではダメだ。何とかみんなで生き残っていこうという知恵の表れが今日の聖書の前半です。
それを深めていくと「隣人を愛し、敵を憎め」と言われているけれどもどうしたらいいか、となります。人間の社会というのは、仲がいい人たちが集まると同時にそうでない人は憎んでいいという集まり方をします。はじき出される人がいないと、より仲良くなれない仕組みがあるのです。それでいいのか?とイエスはずっと考えます。どうしたら皆が喜んで暮らせる世界が来るのだろう、と。人間を人間としてお互いに認め合っていく社会を作っていこうじゃないか。「?」をずっと心の中に持ってです。人間同士がお互いのいのちを喜びあって今日も嬉しいねって言い合っていきたいです。そういう世界を少しずつ作っていくことが神の国に近づくことなのです。そのためにイエスの持っていた心の中にある「?」の刻印をわたしたちは受けています。この大切なことを忘れずに歩んでいきましょう。
« ヨハネによる福音書14章8~17節 「真理の霊」 | トップページ | ヨハネの手紙一 2章22~29節 「永遠の命」 »
「マタイによる福音書」カテゴリの記事
- マタイによる福音書 16章18~20節 「心を一つにして求めるなら」 原 直呼(2024.08.25)
- マタイによる福音書 6章34節 「主イエスにある楽天性」(2024.03.10)
- マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門」(2024.03.03)
- マタイによる福音書 25章31~40節 「小さい者の一人に」(2023.11.26)
- マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」(2023.11.12)
« ヨハネによる福音書14章8~17節 「真理の霊」 | トップページ | ヨハネの手紙一 2章22~29節 「永遠の命」 »
コメント