ヨハネによる福音書 4章5~26節 「井戸端の女」
イエスが旅の途中サマリヤで一人の女と井戸端で出会い会話をすることでロゴスの出来事が起こります。ロゴスとは、直訳すれば「言葉」ですが、実体化する言葉、発することで事が成されていく意味合いをもちます。この女性は実存的な渇きの自覚へと導かれるのです。ただ単に肉体の渇きではなくて、その女性が背負ってきた生涯全てを表わす渇きです。「夫はいません」というと今の相手ともいう言葉からすると6人目ともおそらくうまくいっていないわけです。これだけの人数だと死別したとは考えにくいので多分結婚生活がうまくいかなかったのでしょう。彼女の渇きと言うのは、基本的な最小限度の共同性「対」に関するものです。これを吉本隆明の言う「対幻想」と呼ぶならば、対幻想が破綻してしまう現実を何度も積み重ねてきているということです。
闇を抱えて暮らしている女性に、霊と真理をもってイエスに向かっていく礼拝が対話において今、与えられているのだとイエスは示されます。ロゴスのダイナミズム、言葉が状況を変えていくのです。心から神を信じたいと願っている者、「主よ渇くことがないように」と語っている時にすでに、その方はそのすぐ前にいるのだと、そこにはすでに永遠の命に至る水、人を生かす源である命があるのだということです。そのような神に応答する道があるということです。
この女性に限らず誰もが根っこのところで渇きを覚えながら暮らしています。今、渇いていることをありのままにイエスに向かって述べていくならば、すでにその時にはとうとうと湧き出ずる泉が備えられていることに気が付くことができるのです。全ての者の前に立つ神は、どのような民族、生き方、身分、思想、精神状態などに一切関わりなく、命の源としての神の息吹が注がれる礼拝へと導いてくださっているのです。そのようにして神に向かう心がイエスのロゴスのダイナミズムにおいて示されているというのが今日の聖書です。
「あなたと話しているこのわたしです」と、このサマリヤの女性だけではなく、わたしたちのところに向かっても主イエス・キリスト自らが、ロゴスのダイナミズムにおいて指し向かてこられようとしている。このイエスの指し向いの姿勢は一貫しています。主イエスの逮捕の時にも、わたしであると歩み出されたことそして、イエス・キリストの十字架上の死の姿を思い出しましょう(19:28-30)。
「成し遂げられた」、それは主イエスがダイナミックに水を与え続けるが故に自らが渇く自己犠牲のあり方に他なりません。このサマリヤの女性に命の水、生ける永遠の命に至る水として向き合ったように、わたしたちの命の根源に向かって永遠の命を差し出されているのだということを確認して祈りたいと願っています。
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