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2012年6月

2012年6月24日 (日)

ヨハネによる福音書 4章5~26節 「井戸端の女」

 イエスが旅の途中サマリヤで一人の女と井戸端で出会い会話をすることでロゴスの出来事が起こります。ロゴスとは、直訳すれば「言葉」ですが、実体化する言葉、発することで事が成されていく意味合いをもちます。この女性は実存的な渇きの自覚へと導かれるのです。ただ単に肉体の渇きではなくて、その女性が背負ってきた生涯全てを表わす渇きです。「夫はいません」というと今の相手ともいう言葉からすると6人目ともおそらくうまくいっていないわけです。これだけの人数だと死別したとは考えにくいので多分結婚生活がうまくいかなかったのでしょう。彼女の渇きと言うのは、基本的な最小限度の共同性「対」に関するものです。これを吉本隆明の言う「対幻想」と呼ぶならば、対幻想が破綻してしまう現実を何度も積み重ねてきているということです。
 闇を抱えて暮らしている女性に、霊と真理をもってイエスに向かっていく礼拝が対話において今、与えられているのだとイエスは示されます。ロゴスのダイナミズム、言葉が状況を変えていくのです。心から神を信じたいと願っている者、「主よ渇くことがないように」と語っている時にすでに、その方はそのすぐ前にいるのだと、そこにはすでに永遠の命に至る水、人を生かす源である命があるのだということです。そのような神に応答する道があるということです。
 この女性に限らず誰もが根っこのところで渇きを覚えながら暮らしています。今、渇いていることをありのままにイエスに向かって述べていくならば、すでにその時にはとうとうと湧き出ずる泉が備えられていることに気が付くことができるのです。全ての者の前に立つ神は、どのような民族、生き方、身分、思想、精神状態などに一切関わりなく、命の源としての神の息吹が注がれる礼拝へと導いてくださっているのです。そのようにして神に向かう心がイエスのロゴスのダイナミズムにおいて示されているというのが今日の聖書です。 
 「あなたと話しているこのわたしです」と、このサマリヤの女性だけではなく、わたしたちのところに向かっても主イエス・キリスト自らが、ロゴスのダイナミズムにおいて指し向かてこられようとしている。このイエスの指し向いの姿勢は一貫しています。主イエスの逮捕の時にも、わたしであると歩み出されたことそして、イエス・キリストの十字架上の死の姿を思い出しましょう(19:28-30)。
 「成し遂げられた」、それは主イエスがダイナミックに水を与え続けるが故に自らが渇く自己犠牲のあり方に他なりません。このサマリヤの女性に命の水、生ける永遠の命に至る水として向き合ったように、わたしたちの命の根源に向かって永遠の命を差し出されているのだということを確認して祈りたいと願っています。

2012年6月17日 (日)

ヨハネの手紙一 2章22~29節 「永遠の命」

 永遠の命という言葉は新約聖書では様々な使われ方をしますが、ヨハネ文書の文脈は将来のこととしては考えていません。終末論的現在としての今ここでどうなのか、が永遠の命なのです。今生かされている、死の前の命が根拠づけられている事柄。その神の側からの賜物が永遠の命なのです。確かにやがて来たるべき日に永遠の命は与えられるのだけれども、それが先取りとして既に今ここに与えられているという理解が強いのです。顕著に表わされているのはヨハネ福音書の17章3節です。これは、後の加筆だと言われていますが、広い意味でのヨハネ教団の文書の目的からすれば相応しいと判断しています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(17:3)」ヨハネの手紙一に戻って捉えかえすと、反キリストとか偽る者と呼ばれている人たちはイエスの生身のあり方、いわば受肉について軽んじていたのです。イエス・キリストがわたしたちと全く同じ肉体をもって来られたこと、つまり神がまことの人になったということを認めるか否かは信仰理解にとって非常に大きな問題です。
 神が永遠の領域から時間の領域にやって来られて死に定められた存在へと降りてきたという事実。これが受肉です。そしてイエス・キリストは、神の国を自らの肉をもって宣べ伝えたのです。友なき者の友となり、弱りを覚えている者に慰めを与え、生きる希望を失った者に希望を与え、うずくまっているものを立ち上がらせ、弱っている者に勇気を与える。それがただ単に個人の出来事ではなくて、「わたしたち」という出来事においてです。人は一人ではない、人は孤独ではない、一緒に生きるものなのだと。そのつながりが命においてなされていることを自らが宣教しました。
 受肉と十字架と復活の出来事をわたしたちの死の前の命の根拠として捉える立場に留まっているようにとの促しが今日の聖書の示すところです。わたしたちは死ぬべき存在として定められています。しかしイエス・キリストにおける出来事によってわたしたちの死も生も、それは共に神の支配のもとにある復活から照らされています。わたしたちの命と死は救いあげられているということです。そのことが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(3:16)」という証言なのです。
 やがてわたしたちはこの世での生涯を終え、神の側に移される。わたしたちは、今この時、死の前の今の生、命がイエス・キリストにおいてなされた業において永遠の命によって包まれていることを信じるのです。そのところに留まる、というところにおいて教会はより相応しい信仰へと至る道筋が初めて可能になるのです。ここに神の真実が露わにされてくるに違いないのです。

2012年6月10日 (日)

マタイによる福音書 5章38~48節 「大切なこと」

 わたしたちが生きていく時に大切な目に見えない道具があります。それは「?」です。イエスは「?」をいつも心の中に持つことで、問いを立てて考えて答えを探していきました。どうしたらもっと人間は人間として喜んで暮らしていけるものだろうか、と。そうして考えていく中で常識とか習慣というものを一回受け止めながら、疑いつつ考えました。
 「目には目を、歯には歯を」は当時の律法で「同害報復」、元々仕返しをし過ぎないための教えだったのです。周りを見ると、ローマの軍隊が大勢でやりたい放題威張り散らしているのです。ローマの兵隊に一回殴られたとして、殴り返したら、もしかしたら殺されてしまうことがあるかもしれない。「同害報復」で応えることさえできないような状態があって、すでに不平等な世界なのです。  
 悪人というのはローマの兵隊です。「右のほほを打たれたら左の頬を向けよ」。右の頬を打つためには手の甲で打つことになります。手のひらで触るのはけがらわしいから、軽蔑の意味を込めるのです。あるいは、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(5:40)」とあります。下着というのは、当時、普段着のことを指します。上着というのはコート、あるいは毛布、シュラフに近いものです。律法によれば借金のカタに上着をとったとしてもその日の内に返さなくてならない、とあります(生死に関わるからでしょう)。それ以上のことをやってやれ、という反逆のデモンストレーションです。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(5:41)」も同様です。そのまま言うことを聞くのではなくて、権力を持つ人たちに対してどのように接したらいいのかと問いの中から知恵を振り絞るのです。死んではダメだ。何とかみんなで生き残っていこうという知恵の表れが今日の聖書の前半です。
 それを深めていくと「隣人を愛し、敵を憎め」と言われているけれどもどうしたらいいか、となります。人間の社会というのは、仲がいい人たちが集まると同時にそうでない人は憎んでいいという集まり方をします。はじき出される人がいないと、より仲良くなれない仕組みがあるのです。それでいいのか?とイエスはずっと考えます。どうしたら皆が喜んで暮らせる世界が来るのだろう、と。人間を人間としてお互いに認め合っていく社会を作っていこうじゃないか。「?」をずっと心の中に持ってです。人間同士がお互いのいのちを喜びあって今日も嬉しいねって言い合っていきたいです。そういう世界を少しずつ作っていくことが神の国に近づくことなのです。そのためにイエスの持っていた心の中にある「?」の刻印をわたしたちは受けています。この大切なことを忘れずに歩んでいきましょう。

2012年6月 3日 (日)

ヨハネによる福音書14章8~17節 「真理の霊」

 わたしたちは現代社会、日本的風土の中で<いのち>、あるいは死という出来事、苦しみという事柄について考えなければならない課題があります。突然襲ってくる親しい者の苦しみであるとか暴力的な死というものに対してどのように対していくべきか、についてです。東日本大震災を経たわたしたちは、未だ整理のつかないまま、そのような考察の途上にあろうかと思います。それは危機的な状況に関する事柄です。キリスト者はこの危機的状況というものをあえてイエス・キリストの招きにおける決断において身に引き受けていくのです。苦しい道であったとしても歩んでいかざるを得ない使命を帯びてこの世を旅する者だからです。
 先在のキリストが受肉し十字架の贖いにおいて一切の人間の罪を担って救いの完成をし天に上られました。このイエス・キリストの救いの出来事とキリストが来臨のイエスとしてやって来られるという来たるべき日との間、教会の時をわたしたちは生きているのです。そこにおいてイエス・キリストの招きから決断へというものがどのようにして起こるのでしょうか。イエスに信じて従うという生き方はどのようなものでしょうか。この世にあってこの世の常識という一切を相対化しながら歩んでいくことができるのでしょうか。それを可能とするのは、弁護者ないしは真理の霊と呼ばれる働きです。真理の霊ないしは弁護者の働きは、イエス・キリストが神とお互いに内在しあっている関係をわたしたちにおいてイエス・キリストが内在することへと転化し、新しく平和に向かって歩みだす源泉となり力となるのです。それは他者との関係をとり結ぶことによって新しく何度でも生き直す力の源であるのです。
 今や神の右に座しておられるイエス・キリストの働きとして弁護者ないしは真理の霊というものが与えられるのです。それによってわたしたち自身に信仰が起こされ与えられます。それは、わたしたちが「信仰」だと理解していたものとは違うかもしれません。わたしたちの作り上げた虚像から、実像のイエス・キリストの教え、戒めを守り、平和へと至る道筋に連れ戻されるのです。その道筋が弁護者ないしは真理の霊の働きであると思っています。
 わたしたちが歩んでいく道ゆきにはいつもイエス・キリストは来てくださいます。弁護者、真理の霊として来てくださる。そのことを根拠にしながらわたしたちは絶えず祈りながら、あらゆる一切のこの世の出来事を相対化しながら主イエス・キリストの道を歩む者として整えられたいと願っています。

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