ヨハネの手紙一 2章22~29節 「永遠の命」
永遠の命という言葉は新約聖書では様々な使われ方をしますが、ヨハネ文書の文脈は将来のこととしては考えていません。終末論的現在としての今ここでどうなのか、が永遠の命なのです。今生かされている、死の前の命が根拠づけられている事柄。その神の側からの賜物が永遠の命なのです。確かにやがて来たるべき日に永遠の命は与えられるのだけれども、それが先取りとして既に今ここに与えられているという理解が強いのです。顕著に表わされているのはヨハネ福音書の17章3節です。これは、後の加筆だと言われていますが、広い意味でのヨハネ教団の文書の目的からすれば相応しいと判断しています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(17:3)」ヨハネの手紙一に戻って捉えかえすと、反キリストとか偽る者と呼ばれている人たちはイエスの生身のあり方、いわば受肉について軽んじていたのです。イエス・キリストがわたしたちと全く同じ肉体をもって来られたこと、つまり神がまことの人になったということを認めるか否かは信仰理解にとって非常に大きな問題です。
神が永遠の領域から時間の領域にやって来られて死に定められた存在へと降りてきたという事実。これが受肉です。そしてイエス・キリストは、神の国を自らの肉をもって宣べ伝えたのです。友なき者の友となり、弱りを覚えている者に慰めを与え、生きる希望を失った者に希望を与え、うずくまっているものを立ち上がらせ、弱っている者に勇気を与える。それがただ単に個人の出来事ではなくて、「わたしたち」という出来事においてです。人は一人ではない、人は孤独ではない、一緒に生きるものなのだと。そのつながりが命においてなされていることを自らが宣教しました。
受肉と十字架と復活の出来事をわたしたちの死の前の命の根拠として捉える立場に留まっているようにとの促しが今日の聖書の示すところです。わたしたちは死ぬべき存在として定められています。しかしイエス・キリストにおける出来事によってわたしたちの死も生も、それは共に神の支配のもとにある復活から照らされています。わたしたちの命と死は救いあげられているということです。そのことが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(3:16)」という証言なのです。
やがてわたしたちはこの世での生涯を終え、神の側に移される。わたしたちは、今この時、死の前の今の生、命がイエス・キリストにおいてなされた業において永遠の命によって包まれていることを信じるのです。そのところに留まる、というところにおいて教会はより相応しい信仰へと至る道筋が初めて可能になるのです。ここに神の真実が露わにされてくるに違いないのです。
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