ヨハネによる福音書 16章25~33節 「前進への促し」
天国の教えは、考え悩む力を育む方向性と考え悩む力を停止させるという両方の方向性をもっています。わたしたちはどのように考えるべきなのかとの決断への迫りを感じています。イエスという方を見つめていくならば、より深く考えより深く悩んでいく祈りに生きるのが、キリスト者です。そこに導くのはイエス・キリストの前進への促しです。イエスという方は安直な答えを提示することをせず、解決困難な道にあえて立ち向かう勇気と希望とを指し示そうとなさっています。悩みがない人生が幸せですか?ということをある心理学者が言っていました。わたしは、より深く悩み、より深く考える者が、より深い人生の質を生き抜くことができるだろうと思っています。イエスという方は安直な答えを提示することはなさいません。イエス・キリストの守りは、安直な答えではなくて、アポリア、解決困難な道にあえて立ち向かう勇気と希望とを指し示そうとなさっている方だと、思います。様々な苦難が襲ってくる現実のただ中にあって、天国、彼岸からこの世に向かってイエス・キリストが働きかけることによって、弁護者、真理の霊が与えられ、「勇気を出しなさい」と聞かれるのです。イエス・キリストが備えてくださるところの勇気ですから、わたしたちの努力によって力を振り絞ってだすものではありません。イエス・キリストが「わたしがそれだ」と自ら歩み出てくださるところによる勇気です。だからこそ、わたしたちはこの世の苦難のただ中にあってより深く悩み、より深く考えるということができるし、求められているのです。何故ならば、そこにはすでにイエス・キリストの勝利があるからです。イエス・キリストの十字架の勝利において与えられ約束されている天国の教えにおいて、わたしたちの今という事柄に対してより深く注意深く立ち向かっていくことができる、ということです。わたしたちの今ということを思い浮かべる時に、悩むこと考えることを放棄してしまう生き方を選びとってしまうならば、絶えずファシズムの誘惑に陥る危険性があります。自分の首を絞めるような政治的立場にある人たち、あるいは宗教的指導者たちになびいていってしまう、そういう性質をわたしたちは持っているのです。そのような意味においてわたしたちは、宗教の陶酔性ではなくて、天国から示されるところのキリスト教理解に立ちながら、この世の苦難がある中で、イエス・キリストの勇気に与りながら悩み考える生き方へと招かれています。そこにわたしたちが絶えずイエス・キリストの前進への促しに与っていることを確認しておきたいと願っています。
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