ヨハネによる福音書 7章32~39節 「生きた水」
今日のテキストの場面は仮庵祭です。これは秋の収穫祭で、柳の枝で作った仮庵に住んでイスラエルの祖先たちが荒野で放浪したことを偲び、追体験するという儀式であったようです。古い段階においては雨乞いがもとにあったという説もあります。イエスの時代になると仮庵祭の期間中,毎日シロアムの池の水を黄金の器にくんで神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事が行われたようです。37節の「祭が最も盛大に祝われるその日にイエスは立ちあがって大声で言われた」とあることから判断すると、当時のユダヤ教徒の中で捉えられていた水というイメージを批判して乗り越えようとしています。イスラエルは40年間の荒れ野での生活の中で常に飲み水の問題を抱えていました。人を人として生きながらえさせるところの具体というものを水というイメージで表わしているのです。水に対する渇きの記憶を旧約聖書では色々なところで引きずっています。(イザヤ12: 1-6、 43:19-20、44:3、エゼキエル47:1-12等参照)。エゼキエルの幻の中では、神殿の東西南北から豊かな水が流れ出て、エルサレム神殿を中心として川の水によって象徴されるいのちによって満たされる。あらゆる魚や木々などが豊かさに包まれていく、そういうイメージです。紀元1世紀前半から終り頃までのシリア・パレスチナにおいてのこの共通理解の中で抗う言葉としてイエスは語るのです。人を生かす水というのは、抑圧や差別を乗り越えさせていくところの源泉である、それは涸れてしまうことが決してない豊かな水なのだ、と。その水はヨハネによる福音書の文脈においては、霊、弁護者、あるいは真理の霊と呼ばれるところの、人を人として生かすものです。これによらなければ人は人としてあり得ない源がキリストなのだということを述べているわけです。イエス・キリストにあって生きていくために、主ご自身が自らのいのちを差し出されている、そのいのちを受けることが、「わたしのところに来て飲みなさい」という促しに与ることです。この水とは何か。それはとりもなおさずイエス・キリストの生涯において現わされた、その生き方であり、十字架の死であり、復活と昇天において示された出来事です。エゼキエルでは東西南北に水が豊かにあふれ出たとあります。その溢れ出た水の幻をも遥かに凌ぐ出来事がイエス・キリストなのです。ヨハネによる福音書の証言に「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(19:34)とあります。この主イエス・キリストのわき腹から流されているところの血と水、とりわけ「わたしのところに来て飲みなさい」と促されるところの水のイメージが、十字架において示されているということです。その生きた水の流れに身を委ねていく生き方がキリスト者の生き方であると確認したいと願っています。
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