ヨハネによる福音書 15章18~27節 「あなたは支えられている」
イエスご自身がまことのぶどうの木であって、父なる神を農夫に喩えて、ぶどうの枝である弟子たちに向かって豊かに実を結ぶようにと、つながっているのだ、ということをのべています。イエスがまことのぶどうの木であるがゆえに、そこにつながっている弟子たちは互いに愛し合うという団結の求めがイエスの戒めに収斂されてきます。この世から選び出された弟子集団というものは、この世においては憎悪と迫害とのただ中におかれながらも、イエスに結び付けられている限りにおいて、信仰を失わず互いに愛し合う共同体を形成していくようにと述べているのです。当然、会堂から追い出される状況のただ中においてです。日本におけるキリスト教は、憎悪を受けているという感情とこの国の権力に擦り寄りたいという、両方の感情があると思います。ヨハネによる福音書を読む限りにおいては、そのような中で被害者意識に落ち込んでいくのか、あるいはこの世の権力に擦り寄っていくのか、という問いがここにはあります。そのあり方の中で、悩んでいく力が日本のプロテスタント教会には欠けていたのではないかと思います。自分たちの位置は、一体どのようなところにあるのか、と。イエス・キリストにつながっていればやがて実を結ぶのだと、悩み忍耐していく中で、どのような迫害の中であっても、弁護者、真理の霊に委ねていく生き方がある、というところに立って行くことがキリスト者のあり方ではないでしょうか。悩む力を訓練しながら鍛えていく道を、イエス・キリストは自らが悩むことによって自らが苦しむことによって自らが迫害されることによって、後に続くキリスト者の歩みを整えて下さったのではないかと思います。その辺に対する信頼というものが問われているのです。「信じます」と告白する時、ただ単に口先だけの信仰告白に留まらず、生き方すべてが詰まっている、そのような言葉として受けとめます。どのような困難な状況があったとしても、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃる方はまことなのです。その方からさしのばされているところの枝として、わたしたちが結ばれているならば、どのような困難な状況、人々の憎悪のただ中にあっても、その時々の状況や価値観に揺さぶられることなく、イエス・キリストを救い主と信じますか、という問いに対して、信じますと端的に答えていきながら、弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊に委ねていく生き方へと促されていくのです。そのような仕方においてキリスト者というのは絶えず支えられている存在なのだ、ということを今日の聖書はわたしたちに向かって告げようとしているのです。
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