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2012年5月

2012年5月27日 (日)

ヨハネによる福音書14章15~27節 「聖霊の賜物」

神が我々の側にいることをどのように捉えるかによって教会は立ちもすれば倒れもするということを、まず肝に銘じたいと思います。霊、聖霊、弁護者と呼ばれるものが絶対的他者として立ち現れるのだという信仰でない限り、「神」は結局鏡に映った自分でしかないと自戒しなくてはなりません。それがたとえ敬虔な信仰であり誠実であったとしても、絶対的他者である、霊、聖霊、ないし弁護者と呼ばれるところの働きに委ねていく生き方でなければ、結局はイエス・キリストの名のもとに新たなバベルの塔を作り出すだけではないでしょうか。イエス・キリストご自身の働きを思い返し、記憶の中に呼び戻そうとするならば、「イエス・キリストは大いなる方である」との前提に立っていたいです。神と人との絶対的質的差異というものをキリスト論的に集中していくという姿勢がないと、人間が神になってしまう危険性はいくらでもあるからです。実際、「熱心なクリスチャン」の中に自己神化を感じてしまうことがあります。イエス・キリストが語らせるところにおいてのみ、教会はその言葉に従うことができるし、そこにこそ霊、聖霊、弁護者の働きがあると思います。わたしたちは、イエス・キリストの霊と自分の信仰理解とを同一化させてしまう危険に常にさらされています。自分たちに正義があると思った途端、それはすでにイエス・キリストの霊を裏切ったことになる。自分が真理になってしまう。絶えず聖書に立ち返るという姿勢を保ち続けるという以外に教会が教会として働く道筋はない、ということです。そのような意味において霊の賜物があるのだというところに立ちうるか、というところが問われているのです。イエス・キリストが語ろうとしているのは、イエス・キリスト以外に神に至る道筋はないし、イエス・キリスト以外の霊はまことではないということです。聖書の証言において聞き従っていく在り方を固持できるかどうか、イエス・キリストの言葉、神の言葉が自分たちに都合のいいものになっていないか。神の言葉は、平和へと至らせる道筋に向かってわたしたちに攻撃を仕掛けてくるような迫りがあるのだ、というところに立ち続けなければ、絶えず自分を神にしてしまう危険性があるということです。ここにおいて自己吟味する信仰へと至らせる働きこそが聖霊の賜物であることを確認しましょう。

2012年5月20日 (日)

ヨハネによる福音書 7章32~39節 「生きた水」

今日のテキストの場面は仮庵祭です。これは秋の収穫祭で、柳の枝で作った仮庵に住んでイスラエルの祖先たちが荒野で放浪したことを偲び、追体験するという儀式であったようです。古い段階においては雨乞いがもとにあったという説もあります。イエスの時代になると仮庵祭の期間中,毎日シロアムの池の水を黄金の器にくんで神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事が行われたようです。37節の「祭が最も盛大に祝われるその日にイエスは立ちあがって大声で言われた」とあることから判断すると、当時のユダヤ教徒の中で捉えられていた水というイメージを批判して乗り越えようとしています。イスラエルは40年間の荒れ野での生活の中で常に飲み水の問題を抱えていました。人を人として生きながらえさせるところの具体というものを水というイメージで表わしているのです。水に対する渇きの記憶を旧約聖書では色々なところで引きずっています。(イザヤ12: 1-6、 43:19-20、44:3、エゼキエル47:1-12等参照)。エゼキエルの幻の中では、神殿の東西南北から豊かな水が流れ出て、エルサレム神殿を中心として川の水によって象徴されるいのちによって満たされる。あらゆる魚や木々などが豊かさに包まれていく、そういうイメージです。紀元1世紀前半から終り頃までのシリア・パレスチナにおいてのこの共通理解の中で抗う言葉としてイエスは語るのです。人を生かす水というのは、抑圧や差別を乗り越えさせていくところの源泉である、それは涸れてしまうことが決してない豊かな水なのだ、と。その水はヨハネによる福音書の文脈においては、霊、弁護者、あるいは真理の霊と呼ばれるところの、人を人として生かすものです。これによらなければ人は人としてあり得ない源がキリストなのだということを述べているわけです。イエス・キリストにあって生きていくために、主ご自身が自らのいのちを差し出されている、そのいのちを受けることが、「わたしのところに来て飲みなさい」という促しに与ることです。この水とは何か。それはとりもなおさずイエス・キリストの生涯において現わされた、その生き方であり、十字架の死であり、復活と昇天において示された出来事です。エゼキエルでは東西南北に水が豊かにあふれ出たとあります。その溢れ出た水の幻をも遥かに凌ぐ出来事がイエス・キリストなのです。ヨハネによる福音書の証言に「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(19:34)とあります。この主イエス・キリストのわき腹から流されているところの血と水、とりわけ「わたしのところに来て飲みなさい」と促されるところの水のイメージが、十字架において示されているということです。その生きた水の流れに身を委ねていく生き方がキリスト者の生き方であると確認したいと願っています。

2012年5月13日 (日)

ヨハネによる福音書 16章25~33節 「前進への促し」

天国の教えは、考え悩む力を育む方向性と考え悩む力を停止させるという両方の方向性をもっています。わたしたちはどのように考えるべきなのかとの決断への迫りを感じています。イエスという方を見つめていくならば、より深く考えより深く悩んでいく祈りに生きるのが、キリスト者です。そこに導くのはイエス・キリストの前進への促しです。イエスという方は安直な答えを提示することをせず、解決困難な道にあえて立ち向かう勇気と希望とを指し示そうとなさっています。悩みがない人生が幸せですか?ということをある心理学者が言っていました。わたしは、より深く悩み、より深く考える者が、より深い人生の質を生き抜くことができるだろうと思っています。イエスという方は安直な答えを提示することはなさいません。イエス・キリストの守りは、安直な答えではなくて、アポリア、解決困難な道にあえて立ち向かう勇気と希望とを指し示そうとなさっている方だと、思います。様々な苦難が襲ってくる現実のただ中にあって、天国、彼岸からこの世に向かってイエス・キリストが働きかけることによって、弁護者、真理の霊が与えられ、「勇気を出しなさい」と聞かれるのです。イエス・キリストが備えてくださるところの勇気ですから、わたしたちの努力によって力を振り絞ってだすものではありません。イエス・キリストが「わたしがそれだ」と自ら歩み出てくださるところによる勇気です。だからこそ、わたしたちはこの世の苦難のただ中にあってより深く悩み、より深く考えるということができるし、求められているのです。何故ならば、そこにはすでにイエス・キリストの勝利があるからです。イエス・キリストの十字架の勝利において与えられ約束されている天国の教えにおいて、わたしたちの今という事柄に対してより深く注意深く立ち向かっていくことができる、ということです。わたしたちの今ということを思い浮かべる時に、悩むこと考えることを放棄してしまう生き方を選びとってしまうならば、絶えずファシズムの誘惑に陥る危険性があります。自分の首を絞めるような政治的立場にある人たち、あるいは宗教的指導者たちになびいていってしまう、そういう性質をわたしたちは持っているのです。そのような意味においてわたしたちは、宗教の陶酔性ではなくて、天国から示されるところのキリスト教理解に立ちながら、この世の苦難がある中で、イエス・キリストの勇気に与りながら悩み考える生き方へと招かれています。そこにわたしたちが絶えずイエス・キリストの前進への促しに与っていることを確認しておきたいと願っています。

2012年5月 6日 (日)

ヨハネによる福音書 15章18~27節 「あなたは支えられている」

イエスご自身がまことのぶどうの木であって、父なる神を農夫に喩えて、ぶどうの枝である弟子たちに向かって豊かに実を結ぶようにと、つながっているのだ、ということをのべています。イエスがまことのぶどうの木であるがゆえに、そこにつながっている弟子たちは互いに愛し合うという団結の求めがイエスの戒めに収斂されてきます。この世から選び出された弟子集団というものは、この世においては憎悪と迫害とのただ中におかれながらも、イエスに結び付けられている限りにおいて、信仰を失わず互いに愛し合う共同体を形成していくようにと述べているのです。当然、会堂から追い出される状況のただ中においてです。日本におけるキリスト教は、憎悪を受けているという感情とこの国の権力に擦り寄りたいという、両方の感情があると思います。ヨハネによる福音書を読む限りにおいては、そのような中で被害者意識に落ち込んでいくのか、あるいはこの世の権力に擦り寄っていくのか、という問いがここにはあります。そのあり方の中で、悩んでいく力が日本のプロテスタント教会には欠けていたのではないかと思います。自分たちの位置は、一体どのようなところにあるのか、と。イエス・キリストにつながっていればやがて実を結ぶのだと、悩み忍耐していく中で、どのような迫害の中であっても、弁護者、真理の霊に委ねていく生き方がある、というところに立って行くことがキリスト者のあり方ではないでしょうか。悩む力を訓練しながら鍛えていく道を、イエス・キリストは自らが悩むことによって自らが苦しむことによって自らが迫害されることによって、後に続くキリスト者の歩みを整えて下さったのではないかと思います。その辺に対する信頼というものが問われているのです。「信じます」と告白する時、ただ単に口先だけの信仰告白に留まらず、生き方すべてが詰まっている、そのような言葉として受けとめます。どのような困難な状況があったとしても、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃる方はまことなのです。その方からさしのばされているところの枝として、わたしたちが結ばれているならば、どのような困難な状況、人々の憎悪のただ中にあっても、その時々の状況や価値観に揺さぶられることなく、イエス・キリストを救い主と信じますか、という問いに対して、信じますと端的に答えていきながら、弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊に委ねていく生き方へと促されていくのです。そのような仕方においてキリスト者というのは絶えず支えられている存在なのだ、ということを今日の聖書はわたしたちに向かって告げようとしているのです。

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