ヨハネによる福音書14章15~27節 「聖霊の賜物」
神が我々の側にいることをどのように捉えるかによって教会は立ちもすれば倒れもするということを、まず肝に銘じたいと思います。霊、聖霊、弁護者と呼ばれるものが絶対的他者として立ち現れるのだという信仰でない限り、「神」は結局鏡に映った自分でしかないと自戒しなくてはなりません。それがたとえ敬虔な信仰であり誠実であったとしても、絶対的他者である、霊、聖霊、ないし弁護者と呼ばれるところの働きに委ねていく生き方でなければ、結局はイエス・キリストの名のもとに新たなバベルの塔を作り出すだけではないでしょうか。イエス・キリストご自身の働きを思い返し、記憶の中に呼び戻そうとするならば、「イエス・キリストは大いなる方である」との前提に立っていたいです。神と人との絶対的質的差異というものをキリスト論的に集中していくという姿勢がないと、人間が神になってしまう危険性はいくらでもあるからです。実際、「熱心なクリスチャン」の中に自己神化を感じてしまうことがあります。イエス・キリストが語らせるところにおいてのみ、教会はその言葉に従うことができるし、そこにこそ霊、聖霊、弁護者の働きがあると思います。わたしたちは、イエス・キリストの霊と自分の信仰理解とを同一化させてしまう危険に常にさらされています。自分たちに正義があると思った途端、それはすでにイエス・キリストの霊を裏切ったことになる。自分が真理になってしまう。絶えず聖書に立ち返るという姿勢を保ち続けるという以外に教会が教会として働く道筋はない、ということです。そのような意味において霊の賜物があるのだというところに立ちうるか、というところが問われているのです。イエス・キリストが語ろうとしているのは、イエス・キリスト以外に神に至る道筋はないし、イエス・キリスト以外の霊はまことではないということです。聖書の証言において聞き従っていく在り方を固持できるかどうか、イエス・キリストの言葉、神の言葉が自分たちに都合のいいものになっていないか。神の言葉は、平和へと至らせる道筋に向かってわたしたちに攻撃を仕掛けてくるような迫りがあるのだ、というところに立ち続けなければ、絶えず自分を神にしてしまう危険性があるということです。ここにおいて自己吟味する信仰へと至らせる働きこそが聖霊の賜物であることを確認しましょう。
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