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2012年4月15日 (日)

ヨハネによる福音書 20章19~31節 「見ないで信じる」

19節には「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。仲間内だけで自らの宗教性における共同体に閉じこもっていました。恐れの中で縮こまって鍵を閉めて誰も入ってこれないようにする状況というのは、当時の直弟子だけではなく、教会が絶えず陥りがちな、自分たちの内側にこもろうとする保守性を表わしています。ところが復活のキリストは「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」とあるように、そのただ中に立ち、そして「あなたがたに平和があるように」と言われる方です。あの十字架上のむごたらしく惨めな、釘で手を打ち抜かれ、脇腹を槍で差し貫かれた、その体のままイエス・キリストはよみがえってくださった。つまり十字架のキリストと復活のキリストは全く同じ方です。そこに弟子たちは喜びを見出したのです。かつての自分たちの挫折が、イエス・キリストによって担われることによって、そしてさらにはイエス・キリストの復活によって、喜びへと変えられる。家に鍵をかけている状態から、手とわき腹を見ることによって、イエスが死を乗り越えてその体のままよみがえった、そこには復活のいのちがある、その復活のいのちを受けることができるのだという喜びへと至る記事が、今日のテキストです。病であるとか恐れ慄き、あるいは死への畏れというもの、そのようなものが、傷だらけのままよみがえってくださったイエス・キリストの姿、そして「あなたがたに平和があるように」という言葉によって別の物語へと促されるのです。さらには「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(20:22)。見て信じる信仰から見ないで信じる信仰への転回点がここにあります。今日のテキストの背後に創世記での人の創造物語があります(創世記2:7参照)。かつて神が土の塵を捏ねて鼻に息を吹きいれて人を生きるものとした、それをはるかにしのぐ仕方でイエス・キリストは「あなたがたに平和があるように」という言葉の内実として聖霊を注いだということです。十字架上で脇腹を刺されたときに水と血が流れたとあります。その流れた象徴的な流出のイメージが、ここでは聖霊というものの意味合いに重なってきています。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」との言葉は、トマスだけでなく他の弟子たち、そしてわたしたちにも向けられているのです。神の真実、復活のキリストの真実というものは、客観的に証明されることは決してありえない。ただ信じることができるだけです。ただキリストの復活の出来事を信じるように導かれる時に、わたしたちは見えないものを信じる信仰によって、教会をも含めたこの世のあらゆる事象を相対化しうる視座が与えられるのです。そのことによって、神の思いをこの世に向かって証していく使命が与えられているということです。

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