マタイによる福音書 28章16~20節 「われらと共なる神」
マタイによる福音書に一貫しているのは、イエス・キリストこそが神がわれらと共にいてくださる現実なのだ、ということです。降誕物語には次のようにあります。主の天使が夢でヨセフにマリヤを受け入れるように促す記事です。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(1:2Ⅰ-25)イエスという名は一般的なものですが、「神は救う」という意味です。つまり、「神は救う」現実は「インマヌエル」つまり「神は我々と共におられる」ことなのだというのです。この現実がイエスにおいて旧約の成就としてなったとマタイは証言しているのです。つまり、次の言葉に証言されているようにです。すなわち「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(5:17-18)」と。この言葉は5章~7章にある「山上の説教」の要となるものです。イエスの教えとは旧約の成就として、その教えにおいて現わされているということです。今日のマタイの復活物語のテキストにおいて主イエスは次のように語っています。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)復活のキリストは、かつて主イエスご自身が語られた言葉に集約される行為全体において示された教えの中におられるのです。それが今や教会の現実を支える根拠として、復活の主イエスご自身が再確認しているのです。世の終わりに至る教会の時を支えているのは、復活の主イエスご自身が「われらと共にいます神」であるがゆえに、復活の主イエスが宣べ伝えられる教会の現実存在は常に支えられていることをイースターの朝に共々確認し、心に刻みたいと願っています。
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