ヨハネによる福音書 21章1~14節 「焼き魚を食べるイエス」
何かを一口食べたことによって、かつてその食べ物を口にした時の記憶が鮮明によみがえってくることはあると思います。食べ物を食べた時に、過去のことが今のこととしてリアルな感覚とかリアルな体験につながってくるのです。今日の聖書の箇所は、そのような食べ物に対する記憶と密接に関わりがあると思います。ヨハネによる福音書では復活のイエスは弟子たちの前に何度も現れ、今日の記事は三度目の時のことです。「さあ来て朝の食事をしなさい」。つまり、弟子たちはそれまで朝の食事をしないで働いていたのです。そして一緒に食べたのでしょう。しかし弟子たちは、あなたはどなたですか、と誰も問いただそうとしなかった。言わなくても復活のキリストが傷を負ったままでよみがえってくださった、十字架のイエスがよみがえりのキリストとして、今ここにこうしていてくださるということを、その魚の味を体の中に浸みこませるようにして、弟子たちが味わった。生前のイエスの食卓の姿がそれぞれの記憶の中に広がって、魚を噛み締め飲み下すその度ごとに、あの日あの時イエスが誰といつどこでどのようにして食卓を囲んだか、そのイエスの生き方丸ごとの姿が、魚を味わうことによってよみがえってきた。復活のキリストと食卓を共にするということは、生前のイエスの食卓を再現することであったわけです。イエスの食卓は社会に向かうプロテスト、抗議であり反逆であり生きるための闘いでもあったのです。当時、何を食べるか、それはコシェルと呼ばれるレビ記の清浄規定に適った食べ物でなくてはなりませんでした。それだけでなく、誰と、という問題もあったわけです。より清いとされた人たちと一緒に食べないと穢れてしまうのです。さらに宗教的な作法に適っていない仕方で食べると汚れてしまう。イエスの食卓は、ユダヤ教の律法における食物規定の何を誰とどのようにして食べるかということを一切相対化すること、あるいは無化することによってなされた食卓です。人は食うために生き、生きるために食うという基本的なあり方の中に生きる喜びがあるのだと、生かされている幸いがあるのだということを、生前と同様に、復活されたこの時も演じて見せたのです。「あなたはどなたですか」と、わざわざ問うまでもなく、イエスがキリストである、という知解、理解を求める信仰へと、わたしたちは招かれているのだということです。このことをわたしたちの体に浸みこませるようにして、今日の御言葉を覚えたいと願っています。
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