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2012年4月

2012年4月29日 (日)

ヨハネによる福音書 21章15~25節 「イエスの語りかけ」

今日のテキストは、過去を整え、未来に向けて展望を明らかにしていくということが、今という時に収斂していることを、ペトロの物語で告げていると考えられます。20章まででは愛するという言葉がアガパオ―とフィレオーは区別なく用いられていると考えられますが、21章15節以降のテキストでは意識的に区別されていると、わたしは判断しています。ペトロは、イエスをこの人たち以上に愛して(アガパオ―・神の無償の愛)いるかと問われて、フィレオー(人間的な友愛フィロスの動詞形)でペトロは答えます。二回目も同様です。三回目、イエスはアガパオ―ではなくてフィレオー、人間の側のレベル応じた言葉に降りてきてペトロに尋ねているのです。あえて三度目にイエスが人間的なレベルでの愛というものを求められたということ、確かにイエスの愛はアガペーなのだけれど、それをフィロスとしてしか答えようがない人間ペトロの限界というものを踏まえて問うのです。そこで、ペトロは悲しくなった、とあります。そしてペトロは答えることによって、自らの過去、自らの弱さ、裏切りの現実というものをもう一度そこで確認することになります。イエスとの対話において、三度イエスを知らないと言った人間が、三度人間的なレベルで愛していると答えていくことにおいて、そこにイエスの慈愛、慈しみというものを知ったのです。そこまで降りてきてくださるほどに、わたしのことを心に掛けてくださっているのだという意味合いがあります。かつての出来事を思い起こし、それが今の自分の現実でもあるということ、自分の悲惨さであるとか情けなさというものにおいて悲しくなったということです。しかし、イエスの問いは、そこに留まっているだけでなく希望へと転じていく、新たな今、新たな将来へと歩んでいくような道筋への促しでもあり(ヴァイツゼッカー「荒れ野の40年」参照)、ペトロはほころびを抱えつつも、そのように歩み始めるのです。イエス・キリストが「わたしを愛するか」と三度ペトロに語られたことは過去の昔話などではありません。今ここにこうして、現代のペトロであるわたしたちに向けられているのです。わたしたちは自らの責任においてキリストの赦しの言葉のもとで、復活の主イエス・キリストを愛していく道に促されており、その限りにおいて初めて教会という形に対する思いが整えられていくに違いない、そう信じています。

2012年4月22日 (日)

ヨハネによる福音書 21章1~14節 「焼き魚を食べるイエス」

何かを一口食べたことによって、かつてその食べ物を口にした時の記憶が鮮明によみがえってくることはあると思います。食べ物を食べた時に、過去のことが今のこととしてリアルな感覚とかリアルな体験につながってくるのです。今日の聖書の箇所は、そのような食べ物に対する記憶と密接に関わりがあると思います。ヨハネによる福音書では復活のイエスは弟子たちの前に何度も現れ、今日の記事は三度目の時のことです。「さあ来て朝の食事をしなさい」。つまり、弟子たちはそれまで朝の食事をしないで働いていたのです。そして一緒に食べたのでしょう。しかし弟子たちは、あなたはどなたですか、と誰も問いただそうとしなかった。言わなくても復活のキリストが傷を負ったままでよみがえってくださった、十字架のイエスがよみがえりのキリストとして、今ここにこうしていてくださるということを、その魚の味を体の中に浸みこませるようにして、弟子たちが味わった。生前のイエスの食卓の姿がそれぞれの記憶の中に広がって、魚を噛み締め飲み下すその度ごとに、あの日あの時イエスが誰といつどこでどのようにして食卓を囲んだか、そのイエスの生き方丸ごとの姿が、魚を味わうことによってよみがえってきた。復活のキリストと食卓を共にするということは、生前のイエスの食卓を再現することであったわけです。イエスの食卓は社会に向かうプロテスト、抗議であり反逆であり生きるための闘いでもあったのです。当時、何を食べるか、それはコシェルと呼ばれるレビ記の清浄規定に適った食べ物でなくてはなりませんでした。それだけでなく、誰と、という問題もあったわけです。より清いとされた人たちと一緒に食べないと穢れてしまうのです。さらに宗教的な作法に適っていない仕方で食べると汚れてしまう。イエスの食卓は、ユダヤ教の律法における食物規定の何を誰とどのようにして食べるかということを一切相対化すること、あるいは無化することによってなされた食卓です。人は食うために生き、生きるために食うという基本的なあり方の中に生きる喜びがあるのだと、生かされている幸いがあるのだということを、生前と同様に、復活されたこの時も演じて見せたのです。「あなたはどなたですか」と、わざわざ問うまでもなく、イエスがキリストである、という知解、理解を求める信仰へと、わたしたちは招かれているのだということです。このことをわたしたちの体に浸みこませるようにして、今日の御言葉を覚えたいと願っています。

2012年4月15日 (日)

ヨハネによる福音書 20章19~31節 「見ないで信じる」

19節には「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。仲間内だけで自らの宗教性における共同体に閉じこもっていました。恐れの中で縮こまって鍵を閉めて誰も入ってこれないようにする状況というのは、当時の直弟子だけではなく、教会が絶えず陥りがちな、自分たちの内側にこもろうとする保守性を表わしています。ところが復活のキリストは「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」とあるように、そのただ中に立ち、そして「あなたがたに平和があるように」と言われる方です。あの十字架上のむごたらしく惨めな、釘で手を打ち抜かれ、脇腹を槍で差し貫かれた、その体のままイエス・キリストはよみがえってくださった。つまり十字架のキリストと復活のキリストは全く同じ方です。そこに弟子たちは喜びを見出したのです。かつての自分たちの挫折が、イエス・キリストによって担われることによって、そしてさらにはイエス・キリストの復活によって、喜びへと変えられる。家に鍵をかけている状態から、手とわき腹を見ることによって、イエスが死を乗り越えてその体のままよみがえった、そこには復活のいのちがある、その復活のいのちを受けることができるのだという喜びへと至る記事が、今日のテキストです。病であるとか恐れ慄き、あるいは死への畏れというもの、そのようなものが、傷だらけのままよみがえってくださったイエス・キリストの姿、そして「あなたがたに平和があるように」という言葉によって別の物語へと促されるのです。さらには「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(20:22)。見て信じる信仰から見ないで信じる信仰への転回点がここにあります。今日のテキストの背後に創世記での人の創造物語があります(創世記2:7参照)。かつて神が土の塵を捏ねて鼻に息を吹きいれて人を生きるものとした、それをはるかにしのぐ仕方でイエス・キリストは「あなたがたに平和があるように」という言葉の内実として聖霊を注いだということです。十字架上で脇腹を刺されたときに水と血が流れたとあります。その流れた象徴的な流出のイメージが、ここでは聖霊というものの意味合いに重なってきています。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」との言葉は、トマスだけでなく他の弟子たち、そしてわたしたちにも向けられているのです。神の真実、復活のキリストの真実というものは、客観的に証明されることは決してありえない。ただ信じることができるだけです。ただキリストの復活の出来事を信じるように導かれる時に、わたしたちは見えないものを信じる信仰によって、教会をも含めたこの世のあらゆる事象を相対化しうる視座が与えられるのです。そのことによって、神の思いをこの世に向かって証していく使命が与えられているということです。

2012年4月 8日 (日)

マタイによる福音書 28章16~20節 「われらと共なる神」

マタイによる福音書に一貫しているのは、イエス・キリストこそが神がわれらと共にいてくださる現実なのだ、ということです。降誕物語には次のようにあります。主の天使が夢でヨセフにマリヤを受け入れるように促す記事です。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(1:2Ⅰ-25)イエスという名は一般的なものですが、「神は救う」という意味です。つまり、「神は救う」現実は「インマヌエル」つまり「神は我々と共におられる」ことなのだというのです。この現実がイエスにおいて旧約の成就としてなったとマタイは証言しているのです。つまり、次の言葉に証言されているようにです。すなわち「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(5:17-18)」と。この言葉は5章~7章にある「山上の説教」の要となるものです。イエスの教えとは旧約の成就として、その教えにおいて現わされているということです。今日のマタイの復活物語のテキストにおいて主イエスは次のように語っています。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)復活のキリストは、かつて主イエスご自身が語られた言葉に集約される行為全体において示された教えの中におられるのです。それが今や教会の現実を支える根拠として、復活の主イエスご自身が再確認しているのです。世の終わりに至る教会の時を支えているのは、復活の主イエスご自身が「われらと共にいます神」であるがゆえに、復活の主イエスが宣べ伝えられる教会の現実存在は常に支えられていることをイースターの朝に共々確認し、心に刻みたいと願っています。

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