エフェソの信徒への手紙 5章6~14節 「光の子として」
光の子として歩みなさい、との聖書の語りかけを聞きました。キリスト者という存在は、この世にあって光の子として歩むただ中にこそ使命があるというのです。わたしたちは、どのようなイメージを光の子という言葉から抱くのでしょうか。人間の側から光というプラスイメージを突き詰めていって理想像に近付いていくというあり方なのでしょうか。こういうキリスト者像が正しいのだと予め自分たちで決めておいて、そこに向かって精進していくというあり方は間違っています。聖書に証言されているイエス・キリストご自身から示されて、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(5:10 )ということなしに、光の子として歩む内容が予め解るわけがありません。「主に喜ばれる」ということは自分たちの理想像とか願いとか、こうあるべきだという光の子のイメージが一回解体され、相対化されるところからでないと始まりません。その根拠とは、あくまでもイエス・キリストご自身なのです。14節には次のようにあります「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」。イエス・キリストの復活の力のゆえに眠りから覚めよ、つまり目覚めよ、覚醒していけ、という促しです。イエス・キリストなしには、わたしたちが光の子として歩むことは不可能です。わたしたちが光の子になれるのは、あくまでもイエス・キリストの復活の力による光によって照らされて以外にあり得ません。わたしたちは主イエスからの光をせいぜい、わずかに反射させるような仕方でしか光の子どもではないのです。この自らの限界を踏まえる必要があるのです。パウロがコリントの信徒への手紙で述べているように、わたしたちは土の器であるという限界をもつ脆く儚い存在にしか過ぎないと弁える必要があります。にもかかわらずではなくて、だからこそ、そこにこそ光が宝として注がれることによってキリスト者にされるのです。イエス・キリストの光とは神の全能において示されているところの神の無力さです。主イエスご自身が神に向かって何故見捨てるのか、と叫んでおられるそのところにこそ父なる神の全能が現わされているという理解です。自らの無力さを自覚し打ちのめされ、なお足掻くときにこそまことの光が注がれるのです。光の子であれということは、教会は、そのイエス・キリストの負った十字架を、この時代にあって苦難を共に背負う共同体たれ、ということです。より小さくされている人たちのところに寄り添うようにして十字架へと歩まれたイエス・キリストの死の姿と復活の力に与るように<いのち>を共に担いつつ、この弱いわたしたちが生かされていくような生き方に至る信仰理解へと変容されていきたいと願っています。
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