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2012年3月

2012年3月18日 (日)

ヨハネによる福音書 12章1~8節 「祝福された無駄遣い」

今日の聖書では、逮捕を控えた時、場面はエルサレムの隣村ベタニヤです。エルサレムの繁栄の、いわば影のように存する周縁であったと考えられます。マリヤはイエスの足に香油を塗り、髪で拭った。その香油が非常に高価であったので、貧しい人々に施せばいいではないか、と非難を込めた言葉をユダが口にします。油を塗る、という行為には二種類の意味が想定されます。一つは救い主、メシアとは「油注がれた者」を意味しますから、イエスが王的存在であったということです。もう一つは埋葬の作業の暗示です。遺体に油を塗り、布を巻く習慣があったようですから、イエスの埋葬には油が遣われていませんが、この場面ですでに塗られることで、埋葬がきちんとなされたと証言しているのです。今日のテキストでは後者の意味合いが強いです。十字架上の処刑をマリヤは感じていたのでしょう。イエスは神に献げられる供え物、生贄として十字架に磔られる小羊として、人の罪一切を担ってくださる。このことを彼女は感じ、信じていたのでしょう。イエスに何とかして信じ従い奉仕したい、そのような思いに突き動かされたのではないでしょうか。人々の連帯には宗教的権力・政治的権力との対立が伴います。差別や抑圧によって安定させられている社会を水平社会に向けて行動すれば、政治犯としての十字架刑が待ち受けているのです。神の前に誰もが愛され、祝福されていると主張する。イエスは当時の価値観の根幹を揺るがす危険人物ということになるのです。ヨハネ福音書でのイエスの言葉に聴き従い、心から共鳴するマリヤは、理想的な信仰者として描かれています。その共鳴において、いよいよイエスの死、しかも十字架による処刑が近いということを感じていたのです。兄弟ラザロの死と復活の物語も直前にあります。ラザロは生き返ったけれども、死の悲しみの記憶を引きずっているはずです。いよいよイエスは殺されていく、そこに深い悲しみを覚えたマリヤはできうる限りのことをしようと決意したのでしょう。イエスの死が直前に迫っている、その緊迫した状況の中で自分ができることを貧者の一灯によってなしたのです。当時の庶民は裸足か紐付きのサンダルのような履きもので、足は汚れやすく、油の香りの効用だけではなくて、汚れを落とす意味もあったのでしょう。その汚れを自分の髪の毛で拭ったとあります。イエスがどういう風に歩んでこられたか、は足に現れています。ガリラヤからエルサレムに向かう何回もの旅においてです。イエスの足、その汚れとは、一人ひとりのところに向かって旅をし、慰めを与え、赦しを与え、生きよと促す中で汚れた足です。その汚れを自らの身に引き受けるマリヤは、イエスに共感、共鳴し、我が事として引き受けたということでしょう。十字架のイエスこそが栄光のイエスである、だから、マリヤの行為はイエスに奉仕する祝福された無駄遣いとして、わたしたちは記憶に留めておくのです。

2012年3月14日 (水)

エフェソの信徒への手紙 5章6~14節 「光の子として」

光の子として歩みなさい、との聖書の語りかけを聞きました。キリスト者という存在は、この世にあって光の子として歩むただ中にこそ使命があるというのです。わたしたちは、どのようなイメージを光の子という言葉から抱くのでしょうか。人間の側から光というプラスイメージを突き詰めていって理想像に近付いていくというあり方なのでしょうか。こういうキリスト者像が正しいのだと予め自分たちで決めておいて、そこに向かって精進していくというあり方は間違っています。聖書に証言されているイエス・キリストご自身から示されて、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(5:10 )ということなしに、光の子として歩む内容が予め解るわけがありません。「主に喜ばれる」ということは自分たちの理想像とか願いとか、こうあるべきだという光の子のイメージが一回解体され、相対化されるところからでないと始まりません。その根拠とは、あくまでもイエス・キリストご自身なのです。14節には次のようにあります「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」。イエス・キリストの復活の力のゆえに眠りから覚めよ、つまり目覚めよ、覚醒していけ、という促しです。イエス・キリストなしには、わたしたちが光の子として歩むことは不可能です。わたしたちが光の子になれるのは、あくまでもイエス・キリストの復活の力による光によって照らされて以外にあり得ません。わたしたちは主イエスからの光をせいぜい、わずかに反射させるような仕方でしか光の子どもではないのです。この自らの限界を踏まえる必要があるのです。パウロがコリントの信徒への手紙で述べているように、わたしたちは土の器であるという限界をもつ脆く儚い存在にしか過ぎないと弁える必要があります。にもかかわらずではなくて、だからこそ、そこにこそ光が宝として注がれることによってキリスト者にされるのです。イエス・キリストの光とは神の全能において示されているところの神の無力さです。主イエスご自身が神に向かって何故見捨てるのか、と叫んでおられるそのところにこそ父なる神の全能が現わされているという理解です。自らの無力さを自覚し打ちのめされ、なお足掻くときにこそまことの光が注がれるのです。光の子であれということは、教会は、そのイエス・キリストの負った十字架を、この時代にあって苦難を共に背負う共同体たれ、ということです。より小さくされている人たちのところに寄り添うようにして十字架へと歩まれたイエス・キリストの死の姿と復活の力に与るように<いのち>を共に担いつつ、この弱いわたしたちが生かされていくような生き方に至る信仰理解へと変容されていきたいと願っています。

2012年3月11日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 2章11~21節 「神に対して生きる」

ペトロがそれまで異邦人と食卓を共にしていた態度を急変させた背後には、キリスト教徒とは言いながらも、やはり自分が「正しい」ことをやって安心を得たい思いから自由でない限界を感じます。自分の側から神の側に近づくことをしていないと不安になってしまうのです。律法を守っていれば見返りとして神からの恵みとか祝福が頂ける、そのために自分を鍛え、訓練し研鑽し修行していくのです。これはペトロだけではなくて現代のわたしたちだって陥りうるのです。それをパウロは批判します。イエス・キリストご自身の信仰によってしか、わたしたちは義とされないのだと。つまり、中心点はわたしの信仰なのではなく、イエス・キリストご自身の信仰によって、イエス・キリストご自身が、イエス・キリストご自身の誠実、まことが、一人ひとりに相対することによって義とされるのです。神の前に相応しくない罪人であるわたしたちが義と認められるのは、イエス・キリストご自身の信仰のゆえに赦されるほかありません。そのキリストの信仰というところに立つことが、信仰義認です。問題はイエス・キリストの信仰ですから、福音書を丁寧に読んでイエス・キリストご自身の歩み、十字架、処刑、復活、昇天、そこに現わされているイエス・キリストの信仰。飼い葉桶に寝かされる赤ん坊として、人々からはじかれた余計者として生まれたとの証言は既に十字架の先取りです。飼い葉桶に寝かされたその方が歩まれたのは、より小さくされた、より弱くされた人たち、罪人と呼ばれ生きる資格なしとされた人たち、あるいは悪霊のゆえに穢れているとされた人たち、当時の社会の中で軽蔑されている人たち、のまことの友となる道です。そのイエスの生き方にこそ、キリストの信仰があるのです。その結果、その当時の宗教的政治的な権力からすれば罪ありと認められて十字架において処刑されていったわけです。キリストの信仰の極まった姿、それは十字架上において示されています(マルコ 15:33-39参照)。イエス・キリストの十字架で見捨てられていく、そこにこそ神の全能が現わされているのです。「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」この叫びの中に、人と友となろうとする、そのキリストの信仰の表れがピークを迎えているわけです。ここに共鳴できるかどうかに、わたしたちの信仰理解というものがかかってきます。十字架のイエス・キリストの十字架における叫び、その信仰において、わたしたちは救われる。それがどのような人であったとしても救われる。そう信じることが赦されてある。そこにこそ神に対して生きる道が備えられているということです。

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