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2012年3月11日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 2章11~21節 「神に対して生きる」

ペトロがそれまで異邦人と食卓を共にしていた態度を急変させた背後には、キリスト教徒とは言いながらも、やはり自分が「正しい」ことをやって安心を得たい思いから自由でない限界を感じます。自分の側から神の側に近づくことをしていないと不安になってしまうのです。律法を守っていれば見返りとして神からの恵みとか祝福が頂ける、そのために自分を鍛え、訓練し研鑽し修行していくのです。これはペトロだけではなくて現代のわたしたちだって陥りうるのです。それをパウロは批判します。イエス・キリストご自身の信仰によってしか、わたしたちは義とされないのだと。つまり、中心点はわたしの信仰なのではなく、イエス・キリストご自身の信仰によって、イエス・キリストご自身が、イエス・キリストご自身の誠実、まことが、一人ひとりに相対することによって義とされるのです。神の前に相応しくない罪人であるわたしたちが義と認められるのは、イエス・キリストご自身の信仰のゆえに赦されるほかありません。そのキリストの信仰というところに立つことが、信仰義認です。問題はイエス・キリストの信仰ですから、福音書を丁寧に読んでイエス・キリストご自身の歩み、十字架、処刑、復活、昇天、そこに現わされているイエス・キリストの信仰。飼い葉桶に寝かされる赤ん坊として、人々からはじかれた余計者として生まれたとの証言は既に十字架の先取りです。飼い葉桶に寝かされたその方が歩まれたのは、より小さくされた、より弱くされた人たち、罪人と呼ばれ生きる資格なしとされた人たち、あるいは悪霊のゆえに穢れているとされた人たち、当時の社会の中で軽蔑されている人たち、のまことの友となる道です。そのイエスの生き方にこそ、キリストの信仰があるのです。その結果、その当時の宗教的政治的な権力からすれば罪ありと認められて十字架において処刑されていったわけです。キリストの信仰の極まった姿、それは十字架上において示されています(マルコ 15:33-39参照)。イエス・キリストの十字架で見捨てられていく、そこにこそ神の全能が現わされているのです。「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」この叫びの中に、人と友となろうとする、そのキリストの信仰の表れがピークを迎えているわけです。ここに共鳴できるかどうかに、わたしたちの信仰理解というものがかかってきます。十字架のイエス・キリストの十字架における叫び、その信仰において、わたしたちは救われる。それがどのような人であったとしても救われる。そう信じることが赦されてある。そこにこそ神に対して生きる道が備えられているということです。

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