ヨハネによる福音書 12章1~8節 「祝福された無駄遣い」
今日の聖書では、逮捕を控えた時、場面はエルサレムの隣村ベタニヤです。エルサレムの繁栄の、いわば影のように存する周縁であったと考えられます。マリヤはイエスの足に香油を塗り、髪で拭った。その香油が非常に高価であったので、貧しい人々に施せばいいではないか、と非難を込めた言葉をユダが口にします。油を塗る、という行為には二種類の意味が想定されます。一つは救い主、メシアとは「油注がれた者」を意味しますから、イエスが王的存在であったということです。もう一つは埋葬の作業の暗示です。遺体に油を塗り、布を巻く習慣があったようですから、イエスの埋葬には油が遣われていませんが、この場面ですでに塗られることで、埋葬がきちんとなされたと証言しているのです。今日のテキストでは後者の意味合いが強いです。十字架上の処刑をマリヤは感じていたのでしょう。イエスは神に献げられる供え物、生贄として十字架に磔られる小羊として、人の罪一切を担ってくださる。このことを彼女は感じ、信じていたのでしょう。イエスに何とかして信じ従い奉仕したい、そのような思いに突き動かされたのではないでしょうか。人々の連帯には宗教的権力・政治的権力との対立が伴います。差別や抑圧によって安定させられている社会を水平社会に向けて行動すれば、政治犯としての十字架刑が待ち受けているのです。神の前に誰もが愛され、祝福されていると主張する。イエスは当時の価値観の根幹を揺るがす危険人物ということになるのです。ヨハネ福音書でのイエスの言葉に聴き従い、心から共鳴するマリヤは、理想的な信仰者として描かれています。その共鳴において、いよいよイエスの死、しかも十字架による処刑が近いということを感じていたのです。兄弟ラザロの死と復活の物語も直前にあります。ラザロは生き返ったけれども、死の悲しみの記憶を引きずっているはずです。いよいよイエスは殺されていく、そこに深い悲しみを覚えたマリヤはできうる限りのことをしようと決意したのでしょう。イエスの死が直前に迫っている、その緊迫した状況の中で自分ができることを貧者の一灯によってなしたのです。当時の庶民は裸足か紐付きのサンダルのような履きもので、足は汚れやすく、油の香りの効用だけではなくて、汚れを落とす意味もあったのでしょう。その汚れを自分の髪の毛で拭ったとあります。イエスがどういう風に歩んでこられたか、は足に現れています。ガリラヤからエルサレムに向かう何回もの旅においてです。イエスの足、その汚れとは、一人ひとりのところに向かって旅をし、慰めを与え、赦しを与え、生きよと促す中で汚れた足です。その汚れを自らの身に引き受けるマリヤは、イエスに共感、共鳴し、我が事として引き受けたということでしょう。十字架のイエスこそが栄光のイエスである、だから、マリヤの行為はイエスに奉仕する祝福された無駄遣いとして、わたしたちは記憶に留めておくのです。
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