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2012年2月

2012年2月26日 (日)

ルカによる福音書 18章1~8節  「正義を求め続ける」

今日はマレーシアを覚えての世界祈祷日礼拝です。マレーシアはアジアの中でも比較的安定している国です。海の向こう側の世界に対して歓迎して迎え入れる心というものを持っているのでしょう、歴史的に多種多様の民族・宗教・文化が共存しています。そしてさらに豊かな自然や資源があり、また観光も盛んです。工業も盛んで、アジア各国からの移住労働者が仕事を求めてマレーシアにやってきます。しかし豊かで仕事があり、お金が集まってくると必ずしもいいことばかりではありません。豊かさの陰には貧困や差別があるのです。そこでは人のいのちが尊ばれないということが起こってきます。そうした社会の歪みはより小さくされた人たち、子どもや女性、体の弱い人のところに重荷として痛みとして圧し掛かります。旧約聖書は、やもめを保護しなければいけないという教えを持っていますが、それがいつの間にか、お金に目がくらむ人たちが増えるにつれ軽んじられてしまうのです。当時は宗教的な指導者が裁判官でありました。神を信じている人たちでしたが、「人を人とも思わない、神を神さだとも思わない」思い上がった人が幅を利かせる社会があるのです。その中であきらめることなく何度でも祈るようにして訴え続けていくのです。正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、と。神が願う正義を求めていくことが教会が考えている信仰です。神は困っている人たち、辛い思いをしている人たちの悩みや痛みや辛さをまず最初に聞いてくださって、そこから抜け出す口、逃げ道、歩んでいくべき道を用意してくださっている方なのです(出エジプト記3:7以下参照)。そういう方であるからこそ、あきらめずに祈り求めていくことができます。人を人と思わないような裁判官に対しても闘っていくことができるような粘り強い祈りの道を求めていくことができるのです。そうしたらより豊かな生き方ができていくし、「わたし」が生きているだけではなくて、「わたしたち」が喜んで生きていく道が用意されているのだ、そのように考えるのが教会の教えなのです。世界規模でものを考えて自分たちの住んでいるところで行動していくことが世界祈祷日の一つの目標です。マレーシアのことを覚え祈りながら、この日本という国でもやはり同じように正義でない悪に対して、今日の聖書のやもめのような態度で悪を正していき、人を人とも思わないような裁判官に対して抗議していくのです。そのようにして正義を求め続けていくことが、世界中にある教会がイエス・キリストによって結ばれているということを信じていく道なのです。

2012年2月12日 (日)

コリントの信徒への手紙一 10章1~13節 「偶像を拒絶する」

今日の聖書を理解するためには旧約の出エジプト記の概略を知っておかなければなりません。エジプトにおいて奴隷の民とされていたイスラエルの、神によって立てられたモーセに引き連れられた旅の途上での信仰と不信仰、従順と背信の物語です。40年にも及ぶ荒れ野の旅の中で、しばしば民は不平をつぶやき、また偶像を作り上げるなど神に背くこともしばしばでした。しかし、その度ごとに絶えず神は配慮と助けによって民を守り続けたのです。エジプトから逃れる時には紅海を真っ二つに引き裂く様にして道を開き、雲の柱によって方向を定めさせ、行く道を備えたのです。エジプトでの肉鍋が恋しいと言えばマナやウズラを与え、水がない時にはモーセに力を与え、彼の杖が岩を打つと水が流れ、のどの渇きを癒したこともありました。苦い水を飲めるようにされたこともあります。この神の導きの象徴として岩がキリストなのであるとパウロは語ります。つまり、イエス・キリストの道が示すのは、神が神であることであり、その神は真実であるということです。その神の真実がキリストであるが故にこそ、今や逃れる道、出口が、どのような困難や苦難のただ中においても用意されているというのです。だから、キリストの信仰のゆえに、キリスト者はその方に向かって、今の状況から祈り求める道があるのです。それは祈りを待ち受けてくださるキリストがいることによって備えられていることが確実だということです。しかし、かつてのイスラエルが偶像礼拝から完全には自由でなかったのと同じように、自らの作り出した虚像に閉じ込められているのが人間の限界であり、現実です。にもかかわらず、ではなくて、だからこそパウロが強調するのは、その偶像=人間の作り出した様々な掟や便利さの影響に縛られずに、神の側からの働きかけに応えていく道が確かであること、ここに向かって感謝と祈りを生きることです。それが、イエス・キリストにおいて実現されていることから導かれ、日ごとに新しくされていくキリスト者の現実が用意されているということです。わたしたちは、ここに信頼していく幸いが与えられています。ここに信頼していくならば、どのような困難をも乗り越えていく道があり、耐えられない困難を神が備えているはずがないという安心を得ることができます。その根拠であるイエス・キリスト、この方にのみ信を置く生き方がすでに与えられていることに注目するところから、わたしたちの全生活が整えられていくことを共に信じたいと願います。

2012年2月 5日 (日)

コリントの信徒hの手紙一 3章10から17節 「教会の基」

パウロが説教した内容は、あくまでも十字架です。ローマの基準からすれば政治犯、奴隷の死、見せしめの極刑です。口にするのさえはばかられ、歴史家たちが記録を取ることも嫌がるくらい忌み嫌われた処刑でした。ユダヤ教の伝統からすれば、十字架に架けられるのは神に呪われた人間なのです。しかしそこにこそ、教会の基が据えられているとパウロはいうのです。コリントの信徒への手紙二13:4 に「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」とあります。キリストの十字架の死というものに弱さがある、だけど、その弱いキリストを神は起こす、生かしたということにおいて、弱いわたしたち、弱いあなたがたも、神の力によってキリストと共に生きることができている、そのような力を十字架がもっているのだ、というのです。パウロは十字架の愚かさ、弱さに与っていく、そこにこそ神の力が発揮されるのだと知っていたわけです。ですから、パウロはコリントの信徒への手紙一 1章18節では「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と言っています。十字架の言葉の愚かさ、そこに堅く立つ信仰のあり方がパウロが据えたところの教会の土台なのです。その土台をきちんと踏まえているのかどうか、という問いが今日のテキストです。後に来た伝道者たちは、パウロの据えた土台、「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建て(3:12)」たとあります。これは来たるべき日において明らかにされる火の裁きによる救いの問題です。その時に、一体それは火に耐えうる素材なのかと問うているわけです。如何に金、銀、宝石が尊いものであったとしても、木、草、わらで作ったものと同等に焼く尽くされるのです。どのような見栄えのものを、たとえば、IT,文明・科学信仰を人間が建てようとも、来たるべき日の燃え盛る炎の裁きの前には、一たまりもなく滅びてしまうのです。しかし、人間の手による部分が滅びても、パウロのいう「弱さにおける十字架」が教会の礎であることに信頼してさえいれば、何も恐れることはありません。イエス・キリストという土台の上に、わたしたちは信仰生活の形を形成するわけですが、それはやがて来たるべき日に炎に飲み込まれても、火の中をくぐりぬけて救われるという希望があり、ここに委ねていくところにこそ、教会の今は支えられているのです。

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