コリントの信徒hの手紙一 3章10から17節 「教会の基」
パウロが説教した内容は、あくまでも十字架です。ローマの基準からすれば政治犯、奴隷の死、見せしめの極刑です。口にするのさえはばかられ、歴史家たちが記録を取ることも嫌がるくらい忌み嫌われた処刑でした。ユダヤ教の伝統からすれば、十字架に架けられるのは神に呪われた人間なのです。しかしそこにこそ、教会の基が据えられているとパウロはいうのです。コリントの信徒への手紙二13:4 に「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」とあります。キリストの十字架の死というものに弱さがある、だけど、その弱いキリストを神は起こす、生かしたということにおいて、弱いわたしたち、弱いあなたがたも、神の力によってキリストと共に生きることができている、そのような力を十字架がもっているのだ、というのです。パウロは十字架の愚かさ、弱さに与っていく、そこにこそ神の力が発揮されるのだと知っていたわけです。ですから、パウロはコリントの信徒への手紙一 1章18節では「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と言っています。十字架の言葉の愚かさ、そこに堅く立つ信仰のあり方がパウロが据えたところの教会の土台なのです。その土台をきちんと踏まえているのかどうか、という問いが今日のテキストです。後に来た伝道者たちは、パウロの据えた土台、「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建て(3:12)」たとあります。これは来たるべき日において明らかにされる火の裁きによる救いの問題です。その時に、一体それは火に耐えうる素材なのかと問うているわけです。如何に金、銀、宝石が尊いものであったとしても、木、草、わらで作ったものと同等に焼く尽くされるのです。どのような見栄えのものを、たとえば、IT,文明・科学信仰を人間が建てようとも、来たるべき日の燃え盛る炎の裁きの前には、一たまりもなく滅びてしまうのです。しかし、人間の手による部分が滅びても、パウロのいう「弱さにおける十字架」が教会の礎であることに信頼してさえいれば、何も恐れることはありません。イエス・キリストという土台の上に、わたしたちは信仰生活の形を形成するわけですが、それはやがて来たるべき日に炎に飲み込まれても、火の中をくぐりぬけて救われるという希望があり、ここに委ねていくところにこそ、教会の今は支えられているのです。
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