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2012年1月

2012年1月29日 (日)

ヨハネの手紙一 1章1~4節 「いのちの言葉」

今日のテキストの告げるところは、「見る、よく見る、手で触れる」という事柄を追体験して、さらには伝えるということで、いわゆる広い意味での伝道ということです。ヨハネの手紙一の著者は主イエスと同時代の人ではありませんが、主イエスの出来事を今のこととして受けとめていく、それが教会の活動の原点にあるのだと考えているのでしょう。かつて滝沢克己という学者がいました。かれが一貫して述べていたことは、「インマヌエルの原事実」という言葉に表されています。神の深い愛による約束(契約)、それは一切に先立ってある、という理解です。この世のすべての現実の根底には、「神が共にいてくださる」という原事実があるということです。それが原点なのだということです。簡単に言うと。そこに立っているならば、神の約束のもとで生きていく道筋があるというのです。つまり、わたしたちがどういう信仰理解を持つかに先だってまず神の側からの、神がわれらと共にいてくださるという原事実、中心の中心としてあるのだと。そこから一歩も退くことはできないのです。これがなければ、他の一切は存在することが不可能であると、そこまで徹底した「神がわれらと共にいます」という事柄を滝沢克己は思索し追求しているわけです。祈っているのです。その事柄がヨハネの手紙一の冒頭で語られているのです。教会をどのように見ていくか、と測る物差しが「インマヌエルの原事実」であろうと思います。ここに堅く立つのであれば、教会が内向きになってしまうことに対して否が聞かれてくるのです。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」を今度は「伝えます」という方向性に、内向きでなく外向きに教会のあり方が転じていく、そのような道に導こうとしているわけです。要するに教会というのは、絶えず「インマヌエルの原事実」という出来事を原点にしながら教会を裏返すようにして外向きに、外に向かっていく、そのようにして伝える、これを使い古された言葉では伝道というのですが、要するに広い意味での種まきです。教会が教会としてインマヌエルの原事実というものに堅く立てば種まきに出ていかざるを得ない、証し伝えるという風にせざるを得ない、そのようにしか教会は働けないのです。イエス・キリストご自身がそうであったように教会から外に出る、歩んでいく、種まきの人として遣わされていく、あるいは平和の使者としてこの世に遣わされていく、証しし伝える道へと導かれていることがより明らかにより確かなものとされるのです。ここに共に導かれていることを確認しましょう。

2012年1月22日 (日)

サムエル記上 3章1~10節 「どうぞお話しください」

祈りに対する基本的な態度とは「どうぞお話しください、僕(しもべ)は聞いております」と神に対して心を開くことです。そうして初めてわたしたちは祈ることができるのです。つまり、すでに神ご自身が一人ひとりに向かって語りかけてくださっているので、それに対してする応答として祈ることができるのです。わたしたちは、いつどんなときでも祈ることができます。祈りの基本というのは、まず神がイエス・キリストにおいて語りかけてくださっているがゆえに、わたしたちはイエス・キリストの名前によって祈る道が与えられている、そういう幸いがあるということです。その祈りを聞いてくださる方があり、わたしたちは何の遠慮もせずに祈ることができるということです。神がすでに語りかけてくださっているのだから、わたしたちはどんな苦境にあろうとも祈り続けていくことができるということです。ただ、それが自分の願いどおりになるとは限りません。今日のサムエル記の記事では、サムエルに向かって語られた内容は非常に厳しいものでした。エリの家をとこしえに裁くという内容で、のちに、この言葉通り、エリの息子たちは二人とも同じ日に死んでいくし、エリもそのショックで死んでしまうのです。一人残ったエリの子孫も幸せな死に方をしていません。そういう事情を、幼い少年サムエルは、主に示されてエリに「あなたの家が滅ぼされていく」と語るのです。そしてエリはその言葉を受け入れます「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。祈りにおいて困難、また裁きをも引き受けていく、そのような道がわたしたちには備えられていると信じることができるのです。わたしたちは色々な祈りをします。自分が祈った通りの、自分が願った通りの結果になるとは限らず、全く予期しないような出来事が待ち受けているかもしれません。にもかかわらず、わたしたちは祈ることをやめることができません。祈り続けるのです。わたしたちはイエス・キリストの思いに対して、すでに語られたイエス・キリストの言葉に対して、「どうぞお話しください、僕は聞いております」と応答して歩んでいく中で、一つひとつ大きな課題から小さな課題まで担っていく力が既に与えられ備えられています。さらに祈っていくことが赦されているのです。そのようにしてわたしたちは神との交わりの中で安心と平安のうちに生きていくことへと促されていると、その促しに従って身を委ねていきたいと願っています。

2012年1月15日 (日)

エフェソの信徒への手紙2章1~10節 「神の賜物」

わたしたちは旅の物語によって生きています。天から地へと神の独り子、イエス・キリストが人となった、そして布にくるまれた幼な子が十字架に向かってやがては復活に至るという旅の出来事です。わたしたちは聖書の証言に従って読むならば、主イエス・キリストの旅の物語を神の賜物として受けとめることが赦されている、ということです。クリスマスの物語、そして主イエス・キリストの生涯がわたしたちにとって、まったくの神からの賜物であるということを聖書自体がわたしたちに向かって証言しているということがまず第一に踏まえておかなければならない点です。わたしたちの力によるものではなくて、向こう側から一方的にまた神の恵みが、この物語が一人ひとりに、教会に向かって贈られているのだということを受け入れることが肝要です。その上で、わたしたちはその賜物に相応しいあり方を模索していく、反省しながら考え直していくということへと導かれていくのです。イエス・キリストの旅の物語がわたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。イエス・キリストの迫りを受けた者は、それに相応しい生活をするようにと求められています。10節に「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(8-9節)と語られているように自らを根拠にしてではなくて、イエス・キリストの側から提示された神の賜物によってのみ導かれていく生き方が「良い業を行なって歩む」ということです。その時代のそれぞれの事情においてどのような道が相応しいのかどうか、ということを神の賜物から照らされる光によって再確認する、自己確認するのです。そのことで内省しながら判断していくということです。それをしないと以前あった「過ちと罪のために死んでいる」状態に戻ってしまうということです。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、」とは、その世界を支配している具体的な力です。わたしたちの心が動かされ、考えが決められ、体が動かされる、ということを強いる力全体のことを言います。たとえば、政治、マスメディア、常識、倫理という形で襲ってきますわたしたちが注意深くなければ、それらの力に負けて、わたしたちの力を奮う無意識のようなもの、荒ぶる力に飲み込まれてしまう、ということです。それに対して神の賜物に堅く立つということがキリスト者の生き方なのです。

2012年1月 8日 (日)

コロサイの信徒への手紙1章1~14節 「赦されて生きる」

飼い葉桶に寝かされ布にくるまれた主イエス・キリスト、その方にはすでに十字架の影が差しているのだ、ということです。飼い葉桶の主イエス・キリストは十字架の主イエス・キリストと全く同じ方なのであって、十字架から逆に飼い葉桶が再解釈されるという意味合いがあるわけなのです。キリスト教の教えの最も基本的な教えは贖罪論です。今日の14節「贖い」のことです。その内容は「罪の赦し」のことです。「贖罪」の意味するところは罪の買い取りですが、キリスト教会に定着している専門用語です。この贖罪論を生きる、その時々の教会は、その時々の世の中に対して、どういう位置を取るのかということを、絶えず問われています。贖罪論は、その時々の状況において教会が教会としてよって立つ一番基本的なところです。これを外しては教会ではなくなるというところであり、キリストの贖罪の出来事に相応しく立っているかどうかが決定されるのです。イエス・キリストの十字架の出来事は、人間の根源的な、人間の力ではどうしようもない闇の部分、神に対して真正面から向かい合えず、さらには神を裏切ろうとする、逃れられない心根の総体である罪を赦すのです。その罪はイエス・キリストご自身が担ってくださったのです。生贄の小羊として、そこで血を流されたということによって一回限り、無料で罪の赦しという事柄がなされたということです。本当は人間一人ひとりが負わねばならない罪であるのに、イエス・キリストが身代わりの生贄、神に対する宥めの供え物としてささげられたという出来事です。ここに与って初めてキリスト者の生き方というものが定められるし方向付けられるのです。これが3節から述べられている、イエス・キリストを信じる人たちの生き方なのです。コロサイの信徒への手紙が書かれた状況というものは、どのようなものであったかと考えますと2章8節「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」とあります。これは、その時々の無言の常識、多数派の人々にとって人気があり魅了する力を持った思想や風潮と別のことではありません。わたしたちの暮らすこの社会に満ちた風潮に対して、贖罪論は「否」を声高らかに宣言します(バルメン宣言を参照)。キリストの贖罪に与って、赦されて生きる教会の使命は、ここにこそあり、その真価が絶えず問われていることを厳粛に受け止めたいと願っています。

2012年1月 1日 (日)

イザヤ書11章1~10節 「こういう世界を夢みたい」

6節~8節では、肉食動物と草食動物が一緒にいて平和な状況にあることが述べられています。ここで肉食動物は、より強い権力ある横暴な人々の喩えになっています。草食動物は、より弱いとされている、あるいは軽蔑されている人のことです。そのような人たちが同じ地平に立つ。権力ある者の権力が貶められ、軽蔑されている者が高められることによって、同じいのちある人間として、同じいのちの尊さ、というところに立つことができるということ。そういう世界観です。誰か強い者がいて弱い者がいる、誰か弱い者がいて強い者がいる、そういう世界観ではなくて、神よっていのち与えられてもの全てが同じ地平に立っているという世界観です。いつの時代も権力者たちは思いあがり、弱い者はより貶められていく、その関係が神の国の一歩手前の中で変えられていくのです。昨年は、とりわけ3.11以降、希望が持てないわたしたちをめぐる状況、失意、絶望、また人間の力の弱さ、愚かさとか、富にしがみつこうとする人々の愚かさや醜さというもの、また大自然の災害の中で、如何に人間達が弱く儚いものなのか、ということを思い知らされた年でもありました。しかし、イエス・キリストの誕生という出来事、クリスマスの光という出来事から照らされていくとき、その絶望のただ中にあっても新しい動きとしての希望は、もうすでに動き始めているし、動き続けていると思います。わたしたちは、平和の主イエス・キリストにあって、来たるべき日、終わりの日、に至る一歩手前のところであらゆる人々がいのちの底でつながっていく、網の目に結ばれているということを心の底で信じるように導かれているのではないでしょうか。いのちというものが結び付けられているのだから、何とかしてお互いのいのちを喜びあって生きていける、そのような社会をクリスマスの主イエスにあって求め続けていくことができるのです。その平和の主イエス・キリストの誕生を祝うということは、そのようないのちを尊ぶ働き、活動に連なっていく、あるいは、そこに心を寄せる、あるいはささげていくことに他なりません。そのような社会を夢みる力、夢みる希望、それがわたしたちとってのクリスマスの喜ばしき音信なのではないか、そのように思います。わたしたちは一人で生きているのではありません。クリスマスの主イエス・キリストによって貸し与えられているいのちを精一杯使うためには、他のいのちとつながっていく道を模索していくように促されています。

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