エフェソの信徒への手紙2章1~10節 「神の賜物」
わたしたちは旅の物語によって生きています。天から地へと神の独り子、イエス・キリストが人となった、そして布にくるまれた幼な子が十字架に向かってやがては復活に至るという旅の出来事です。わたしたちは聖書の証言に従って読むならば、主イエス・キリストの旅の物語を神の賜物として受けとめることが赦されている、ということです。クリスマスの物語、そして主イエス・キリストの生涯がわたしたちにとって、まったくの神からの賜物であるということを聖書自体がわたしたちに向かって証言しているということがまず第一に踏まえておかなければならない点です。わたしたちの力によるものではなくて、向こう側から一方的にまた神の恵みが、この物語が一人ひとりに、教会に向かって贈られているのだということを受け入れることが肝要です。その上で、わたしたちはその賜物に相応しいあり方を模索していく、反省しながら考え直していくということへと導かれていくのです。イエス・キリストの旅の物語がわたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。イエス・キリストの迫りを受けた者は、それに相応しい生活をするようにと求められています。10節に「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(8-9節)と語られているように自らを根拠にしてではなくて、イエス・キリストの側から提示された神の賜物によってのみ導かれていく生き方が「良い業を行なって歩む」ということです。その時代のそれぞれの事情においてどのような道が相応しいのかどうか、ということを神の賜物から照らされる光によって再確認する、自己確認するのです。そのことで内省しながら判断していくということです。それをしないと以前あった「過ちと罪のために死んでいる」状態に戻ってしまうということです。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、」とは、その世界を支配している具体的な力です。わたしたちの心が動かされ、考えが決められ、体が動かされる、ということを強いる力全体のことを言います。たとえば、政治、マスメディア、常識、倫理という形で襲ってきますわたしたちが注意深くなければ、それらの力に負けて、わたしたちの力を奮う無意識のようなもの、荒ぶる力に飲み込まれてしまう、ということです。それに対して神の賜物に堅く立つということがキリスト者の生き方なのです。
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