サムエル記上 3章1~10節 「どうぞお話しください」
祈りに対する基本的な態度とは「どうぞお話しください、僕(しもべ)は聞いております」と神に対して心を開くことです。そうして初めてわたしたちは祈ることができるのです。つまり、すでに神ご自身が一人ひとりに向かって語りかけてくださっているので、それに対してする応答として祈ることができるのです。わたしたちは、いつどんなときでも祈ることができます。祈りの基本というのは、まず神がイエス・キリストにおいて語りかけてくださっているがゆえに、わたしたちはイエス・キリストの名前によって祈る道が与えられている、そういう幸いがあるということです。その祈りを聞いてくださる方があり、わたしたちは何の遠慮もせずに祈ることができるということです。神がすでに語りかけてくださっているのだから、わたしたちはどんな苦境にあろうとも祈り続けていくことができるということです。ただ、それが自分の願いどおりになるとは限りません。今日のサムエル記の記事では、サムエルに向かって語られた内容は非常に厳しいものでした。エリの家をとこしえに裁くという内容で、のちに、この言葉通り、エリの息子たちは二人とも同じ日に死んでいくし、エリもそのショックで死んでしまうのです。一人残ったエリの子孫も幸せな死に方をしていません。そういう事情を、幼い少年サムエルは、主に示されてエリに「あなたの家が滅ぼされていく」と語るのです。そしてエリはその言葉を受け入れます「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。祈りにおいて困難、また裁きをも引き受けていく、そのような道がわたしたちには備えられていると信じることができるのです。わたしたちは色々な祈りをします。自分が祈った通りの、自分が願った通りの結果になるとは限らず、全く予期しないような出来事が待ち受けているかもしれません。にもかかわらず、わたしたちは祈ることをやめることができません。祈り続けるのです。わたしたちはイエス・キリストの思いに対して、すでに語られたイエス・キリストの言葉に対して、「どうぞお話しください、僕は聞いております」と応答して歩んでいく中で、一つひとつ大きな課題から小さな課題まで担っていく力が既に与えられ備えられています。さらに祈っていくことが赦されているのです。そのようにしてわたしたちは神との交わりの中で安心と平安のうちに生きていくことへと促されていると、その促しに従って身を委ねていきたいと願っています。
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コメント
« エフェソの信徒への手紙2章1~10節 「神の賜物」 | トップページ | ヨハネの手紙一 1章1~4節 「いのちの言葉」 »
私はサムエルの主よ、お話しください、しもべは聞いております、というみ言葉を読んだ時、とても感動しました。神さまの声を聞いたサムエルのことを思うとほんとに胸が熱くなります。それだけにこの記事はひじょうに興味深く読ませて頂きました。ありがとうございました。
投稿: 水口栄一 | 2020年11月21日 (土) 18時23分
水口栄一さま
コメントをありがとうございます。
サムエルの祈りの姿勢から学ぶところが多くありますね。
祈る人としてご一緒に歩んでいけたらと思います。
投稿: 原 宝 | 2020年11月22日 (日) 20時27分
2022年の秋から息子が病気になり、わたしは祈ることもできないまま、なぜか散歩をするようになりました。でも、もしかしたら、あの時わたしは祈っていたのかもしれません。「なぜうちの子が」という怒りと悲しみに満ちて、歩き続けたものでした。現在息子の病気は快方に向かっており、2ヶ月前から、薬を使用しつつ、元気に生きることができるようになりました。息子が元気になるまでは、誰からの励ましもむしろ苦痛でした。ひとり沈黙し、何故なのですか?と怒り悲しむことしかできませんでした。
投稿: Emiko | 2023年9月27日 (水) 17時06分