ルカによる福音書 2章8~20節 「飼い葉桶から十字架へ」
天使たちは真っ先に軽蔑されていた羊飼いたちのところへ現われ「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げます。疎外と孤独、それに増し加わる日々の厳しい生活のことでも不安や心配を山ほど抱え、苦労して生きている、そのような羊飼いの一人一人に向かって、今日、「あなたのために」、救い主がお生まれになったと言ったのです。そして、それぞれに不安や心配を抱えている、現代に生きるわたしたちに向かっても「あなたのために」救い主がお生まれになったというのです。あなたは見捨てられてはいない。あなたのために救い主が生まれた。その救い主は、羊飼いたちと同じ地平に生まれて、彼らと同じようにあらゆる苦しみの道を歩む方です。その道行きを示すかのように神を賛美する大きな歌声が天に響きます「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。天に栄光があることと、地上に平和があることが、別の意味で歌われているのではありません。神は、いと高きところの天の栄光が、地上に平和をもたらすために、独り子を送りました。見栄えのない姿の幼な子を送ることによって、天の栄光は地の平和となったのです。つまり、この幼な子において、天と地が結ばれた、ということなのです。天地創造における「光あれ」と示された光は本質的、根源的な光です。この根源的な光がキリストとなったのです(ヨハネ1:1-18)。さらには、その光がパウロを照らすことで彼はキリストをのべ伝える人に作り変えられました(使徒言行録9章参照)。今日の聖書から、この光が羊飼いたちにも照らされていることを確認すると同時に、同じ光がわたしたち向かっても照らされているのだということを、共々信じたいと願っています。クリスマスとは、神が天において自己完結する神なのではなくて、自らの独り子を送ることによって、絶望が絶望のまま終わることはないという希望のメッセージであり続けるのです。 泊まる家なく、飼い葉桶に寝かされ、正当な人としての生まれ方ではなく、そして、その生の最期には、罪人として捕われる、いわば、飼い葉桶から十字架に赴く方こそが、神の独り子だというのです。この方は、飼い場桶から十字架への道を自ら歩んで行かれるのです。余計者として扱われながらも、この幼な子が、一切を委ねて、すやすや眠る安心感に、神によって満たされていることへと、わたしたちの思いを促すのです。すでに飼い葉桶の主イエスの姿は十字架の光に照らされているのです。このことによって、わたしたちのクリスマス信仰は支えられているのです。
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