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2011年12月

2011年12月25日 (日)

ルカによる福音書 2章8~20節 「飼い葉桶から十字架へ」

天使たちは真っ先に軽蔑されていた羊飼いたちのところへ現われ「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げます。疎外と孤独、それに増し加わる日々の厳しい生活のことでも不安や心配を山ほど抱え、苦労して生きている、そのような羊飼いの一人一人に向かって、今日、「あなたのために」、救い主がお生まれになったと言ったのです。そして、それぞれに不安や心配を抱えている、現代に生きるわたしたちに向かっても「あなたのために」救い主がお生まれになったというのです。あなたは見捨てられてはいない。あなたのために救い主が生まれた。その救い主は、羊飼いたちと同じ地平に生まれて、彼らと同じようにあらゆる苦しみの道を歩む方です。その道行きを示すかのように神を賛美する大きな歌声が天に響きます「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。天に栄光があることと、地上に平和があることが、別の意味で歌われているのではありません。神は、いと高きところの天の栄光が、地上に平和をもたらすために、独り子を送りました。見栄えのない姿の幼な子を送ることによって、天の栄光は地の平和となったのです。つまり、この幼な子において、天と地が結ばれた、ということなのです。天地創造における「光あれ」と示された光は本質的、根源的な光です。この根源的な光がキリストとなったのです(ヨハネ1:1-18)。さらには、その光がパウロを照らすことで彼はキリストをのべ伝える人に作り変えられました(使徒言行録9章参照)。今日の聖書から、この光が羊飼いたちにも照らされていることを確認すると同時に、同じ光がわたしたち向かっても照らされているのだということを、共々信じたいと願っています。クリスマスとは、神が天において自己完結する神なのではなくて、自らの独り子を送ることによって、絶望が絶望のまま終わることはないという希望のメッセージであり続けるのです。 泊まる家なく、飼い葉桶に寝かされ、正当な人としての生まれ方ではなく、そして、その生の最期には、罪人として捕われる、いわば、飼い葉桶から十字架に赴く方こそが、神の独り子だというのです。この方は、飼い場桶から十字架への道を自ら歩んで行かれるのです。余計者として扱われながらも、この幼な子が、一切を委ねて、すやすや眠る安心感に、神によって満たされていることへと、わたしたちの思いを促すのです。すでに飼い葉桶の主イエスの姿は十字架の光に照らされているのです。このことによって、わたしたちのクリスマス信仰は支えられているのです。

2011年12月11日 (日)

ヨハネによる福音書1章19~28節 「先駆者」

洗礼者ヨハネというのは、どのような使命を帯びてきたのでしょうか?それは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ。」ということです。この主の道というのはキリストの道です。キリストがこの世に到来する、謙遜において受肉するという出来事を示します。さらには、この世においてその業を行ないつつ、ご自身の道を開かれていく道です。人間が謙虚に主を待ち望むことができるように、主の到来に先だって「主の道をまっすぐにせよ」との呼びかけの声として洗礼者ヨハネは立っています。その当時すでにユダヤ教の信仰も、またローマの権力も堕落してしまっていました。洗礼者ヨハネから見れば非常に穢れた世界が来ていました。穢れた世界というのは、人の手垢にまみれて神の思いが地上になされていない、不正と不義に満ちた社会です。他の福音書によれば、ヨハネの批判はヘロデにも向かっていきますし、純粋な信仰ではないと思われたユダヤ人同胞にも向かって行くのです。もはやエルサレムでさえ、洗礼者ヨハネから見れば聖なる場所になっていないのです。ですから洗礼者ヨハネはいくら信仰深そうに語ったところで、また、信仰熱心な儀式がなされていたとしてもエルサレムはすでに穢れてしまっていると批判していくのです。かつてイスラエルが旅をし、その都度神の声を聞いた荒れ野、まだ人の手垢にまみれていない厳しい場所である荒れ野から神に立ち返れと、「主の道をまっすぐにせよ」と語っていったのです。主の道から外れているので、「主の道をまっすぐにせよ」いう声だというのですが、主の道、つまりキリストの到来を妨げるものがある。人間の不自由、貧困、無知、そのようなものが存在するのです。力、富、知識というものがある、虚偽や罪責、人間の手が作りだしたものを拝むような態度、あるいは自分自身だけが可愛く思えるようなあり方、そのようにして人間自身が落ち込んでしまう誘惑。心を頑なにしてしまって、神に対する反抗、反逆、拒絶などが広まっている。それらのあり方を洗礼者ヨハネは主の道をまっすぐにするために、ブルドーザーのようにガガッと「主の道をまっすぐに」する活動をしたのです。今の時代は主の到来によって全く違う時代が切り開かれていく、その雄叫びである声なのだという自覚のもと洗礼者ヨハネは活動しました。汚れに満ちた、不正に満ちた時代のただ中にあって、主は来られる、その先駆けとして洗礼者ヨハネは自らの使命観に生きた、神から与えられた使命に生きたのです。この声の促しのもと、主イエスを待ち続ける心構えにおいて今の時代を生き残る知恵が始まると信じつつ共々歩んでいきましょう。

2011年12月 4日 (日)

ヨハネによる福音書5章36~47節 「神の道」

わたしたちの信仰的な態度とは、まず先立ってイエス・キリストが語りかけてくださっているので、その応答からでしかあり得ないのです。わたしたちがいくら自分たちの側から祈っているつもりでも、実は先にイエス・キリストの神の言葉が一人ひとりに臨んでいるからこそ、聖霊の力においてその言葉を受けた人が、主の御名によって応答として祈ることが赦されているし、それが求められているのです。今日の聖書は、この点を勘違いしている人たちに対して論争をしているところです。ヨハネによる福音書が描かれた時点では、この母体であるヨハネ教会(ヨハネ教団)の教会の状況が現れています。ヨハネによる福音書を読んでいきますと、光とか闇とかが出てきます。よく読んでみるとイエス・キリストの周りだけ明るいのです。明るいというのは光です。ただ、その光というのは目に見える仕方での光ではありません。根本的ないのちというものを照らす、実存的な意味での光です。わたしたちは直接的にどんな方法をとっても神へと至る道は全く閉ざされています。ただ唯一の道、それは主イエスご自身が神の独り子として、まことの神まことの人として来られて、わたしたちのもとに留まってくださるということです。それを受け入れるのか、あるいはそれを拒むのか、その決断が聖霊という目に見えない働きによって促されるのです。ここでどのように応答していくのか。主イエス・キリストは絶えずそのようにしてわたしたちに迫り、決断を求めていらっしゃいます。具体的な態度決定が求められます。社会に対し、社会制度の中ではじかれてしまっている人に対し、いのちを脅かすものに対し、どのように向き合うことが主イエス・キリストへの応答になるか決断せよ、ということです。主イエス・キリストは、今日もわたしたちに向かって、「わたしである」と語りかけつつ向かってきておられます。律法学者たちのように自分たちの中で内側に向かい自分と自分で対話し考えながら神に向かうのでしょうか。それとも、向こう側から「わたしである」と語りかけてくださる方に感謝を持って、イエス・キリストの言葉を受けとめ応答していくのでしょうか。アドベント、待降節において飼い葉桶の主イエス・キリストをお迎えするために、わたしたち一人ひとりに態度決定が求められています。まことの光で全ての人を照らす実存として、その人の生涯がどのような苦難の中にあろうとも祝福されているのです。ここには主イエス・キリストの側から来て喜ばれているいのちであるということ、これを受けとめる促しの言葉があります。

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