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2011年12月 4日 (日)

ヨハネによる福音書5章36~47節 「神の道」

わたしたちの信仰的な態度とは、まず先立ってイエス・キリストが語りかけてくださっているので、その応答からでしかあり得ないのです。わたしたちがいくら自分たちの側から祈っているつもりでも、実は先にイエス・キリストの神の言葉が一人ひとりに臨んでいるからこそ、聖霊の力においてその言葉を受けた人が、主の御名によって応答として祈ることが赦されているし、それが求められているのです。今日の聖書は、この点を勘違いしている人たちに対して論争をしているところです。ヨハネによる福音書が描かれた時点では、この母体であるヨハネ教会(ヨハネ教団)の教会の状況が現れています。ヨハネによる福音書を読んでいきますと、光とか闇とかが出てきます。よく読んでみるとイエス・キリストの周りだけ明るいのです。明るいというのは光です。ただ、その光というのは目に見える仕方での光ではありません。根本的ないのちというものを照らす、実存的な意味での光です。わたしたちは直接的にどんな方法をとっても神へと至る道は全く閉ざされています。ただ唯一の道、それは主イエスご自身が神の独り子として、まことの神まことの人として来られて、わたしたちのもとに留まってくださるということです。それを受け入れるのか、あるいはそれを拒むのか、その決断が聖霊という目に見えない働きによって促されるのです。ここでどのように応答していくのか。主イエス・キリストは絶えずそのようにしてわたしたちに迫り、決断を求めていらっしゃいます。具体的な態度決定が求められます。社会に対し、社会制度の中ではじかれてしまっている人に対し、いのちを脅かすものに対し、どのように向き合うことが主イエス・キリストへの応答になるか決断せよ、ということです。主イエス・キリストは、今日もわたしたちに向かって、「わたしである」と語りかけつつ向かってきておられます。律法学者たちのように自分たちの中で内側に向かい自分と自分で対話し考えながら神に向かうのでしょうか。それとも、向こう側から「わたしである」と語りかけてくださる方に感謝を持って、イエス・キリストの言葉を受けとめ応答していくのでしょうか。アドベント、待降節において飼い葉桶の主イエス・キリストをお迎えするために、わたしたち一人ひとりに態度決定が求められています。まことの光で全ての人を照らす実存として、その人の生涯がどのような苦難の中にあろうとも祝福されているのです。ここには主イエス・キリストの側から来て喜ばれているいのちであるということ、これを受けとめる促しの言葉があります。

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