ヨハネによる福音書1章19~28節 「先駆者」
洗礼者ヨハネというのは、どのような使命を帯びてきたのでしょうか?それは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ。」ということです。この主の道というのはキリストの道です。キリストがこの世に到来する、謙遜において受肉するという出来事を示します。さらには、この世においてその業を行ないつつ、ご自身の道を開かれていく道です。人間が謙虚に主を待ち望むことができるように、主の到来に先だって「主の道をまっすぐにせよ」との呼びかけの声として洗礼者ヨハネは立っています。その当時すでにユダヤ教の信仰も、またローマの権力も堕落してしまっていました。洗礼者ヨハネから見れば非常に穢れた世界が来ていました。穢れた世界というのは、人の手垢にまみれて神の思いが地上になされていない、不正と不義に満ちた社会です。他の福音書によれば、ヨハネの批判はヘロデにも向かっていきますし、純粋な信仰ではないと思われたユダヤ人同胞にも向かって行くのです。もはやエルサレムでさえ、洗礼者ヨハネから見れば聖なる場所になっていないのです。ですから洗礼者ヨハネはいくら信仰深そうに語ったところで、また、信仰熱心な儀式がなされていたとしてもエルサレムはすでに穢れてしまっていると批判していくのです。かつてイスラエルが旅をし、その都度神の声を聞いた荒れ野、まだ人の手垢にまみれていない厳しい場所である荒れ野から神に立ち返れと、「主の道をまっすぐにせよ」と語っていったのです。主の道から外れているので、「主の道をまっすぐにせよ」いう声だというのですが、主の道、つまりキリストの到来を妨げるものがある。人間の不自由、貧困、無知、そのようなものが存在するのです。力、富、知識というものがある、虚偽や罪責、人間の手が作りだしたものを拝むような態度、あるいは自分自身だけが可愛く思えるようなあり方、そのようにして人間自身が落ち込んでしまう誘惑。心を頑なにしてしまって、神に対する反抗、反逆、拒絶などが広まっている。それらのあり方を洗礼者ヨハネは主の道をまっすぐにするために、ブルドーザーのようにガガッと「主の道をまっすぐに」する活動をしたのです。今の時代は主の到来によって全く違う時代が切り開かれていく、その雄叫びである声なのだという自覚のもと洗礼者ヨハネは活動しました。汚れに満ちた、不正に満ちた時代のただ中にあって、主は来られる、その先駆けとして洗礼者ヨハネは自らの使命観に生きた、神から与えられた使命に生きたのです。この声の促しのもと、主イエスを待ち続ける心構えにおいて今の時代を生き残る知恵が始まると信じつつ共々歩んでいきましょう。
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