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2011年11月20日 (日)

申命記15章7~11節 「いのちの分かち合い」三森妃佐子 牧師

今日は収穫感謝祭の日で収穫のめぐみを神に感謝する日です。しかし、今私たちの直面している現実は「収穫のめぐみを神に感謝します、アーメン」で終えることができません。それは、人口70億人の中で飢えに苦しんでいる人は9億2500万人。その中で日本は世界一食べ物廃棄量が多く、その量は3000万人分の年間の食糧に匹敵します。私たちが生活を変えることによって飢えに苦しんでいる人たちはいのちの糧をうることができるのです。生きることができるのです。これがいのちの分かち合いなのです。3.11東日本大震災、津波、そしてその後の台風被害は農村、漁村に打撃を与えました。飢えに苦しむこと、そして災害、人災など「神のめぐみ」に感謝と裏腹に私たちは「なぜ」と神に向かって問い続けています。しかし、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き痛みを知った」(出エジプト記3:7)とあるように私たちを存在したもう神は、そのような神なのです。そして本日の聖書の箇所申命記15章7-11節の契約を忘れてはならないと思います。決して忘れてはならないと思います。最後に詩をお読みします。「わたしは飢えていた」(作 ベルホールド・ブルクハルト/訳 伊藤規矩治)(「なぜ南は飢えるのか」日本ユニセフ協会パンフより) わたしは飢えていた。そのわたしの食糧を/あなたがたは家畜の餌にした わたしは飢えていた。そのわたしの肥えた土地に /あなたがたの会社は冬のトマトを植えたわたしは飢えていた。けれどあなたがたは/南米からのステーキを諦めなかった わたしは飢えていた。けれど米―わたしの日用の糧の育つ所に/あなたがたのための茶畑がつくられた  わたしは飢えていた。けれどあなたがたは砂糖きびや/マニオクから/自動車の燃料をつくっていた わたしは飢えていた。けれどあなたがたの工場廃水は/魚の住む水に毒を流している わたしは飢えていた。けれどあなたがたは金の力で/わたしの食糧を買いあげてしまった わたしは飢えていた。けれど私の国の畑には/あなたがたの贅沢のために/珍しい果物が植えてある あなたがたに怖いのは一体なんなのか。あり余る贅沢、有害な贅沢を/諦めることか/路線を切り換えることか/欧州共同体の政治家の権力か/自治体制を強化する運動か/隣人の横あいからにらむ目の色か/一体何が恐いというのだ私は飢えていた。けれどあなた方は/食べるものをくれなかった。

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