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2011年11月

2011年11月27日 (日)

ローマの信徒への手紙11章13~24節 「歴史への参与」

この世の祝うクリスマスと教会の祝うクリスマスは、厳粛さや敬虔さという物差しからすれば、教会の方が素晴らしくて正しくてより優れていると考えがちですが、違いはほとんどありません。紙一重の差です。クリスマスの出来事に対して天に目を注ぎつつ、すでに来てくださった主イエスにおいて、やがて来てくださるであろう主イエスに対して畏れをもって待つことが赦されているという憐れみを知っているかどうかです。わたしたちは洗礼を受けることによって主イエスの死に与り、復活の出来事によって、天における希望を抱く、この世における寄留の民です。これが教会です。神の憐れみは旧約を読んでいくと、取りに足らない弱小の民が神よって救われていくという出エジプトなどの物語によって表わされています。同時に、神の憐れみを受けつつも裏切り、偽りの道、神を神としない偶像礼拝の誘惑、さらには、律法は本来良きものであるにもかかわらず「律法主義」へと脱落してしまうことによってしまった民でもあります。このキリスト者の現実をパウロは「土の器」と呼んだのです。教会は謙虚さを保ち、神への畏れを感謝として受けとめながらでないと、いつでも神からの脱落の危険を持っています。アドベントは、主イエスが今年も飼い葉桶に寝かされる仕方でこの世に来られたことを今一度新たに心に刻むことです。飼い葉桶の主イエスを思い浮かべるとき、教会は謙虚さを保ち、神への畏れを感謝として受けとめるのです。そしてこの謙虚さと神への恐れは飼い葉桶の主イエスにおいて実現された神の働きであるが故であることに気づかされていきます。この気付きに生きる者がキリスト者と呼ばれます。この人たちは、神と人とに愛されて成長し、十字架に向かう主イエスの道へと誘われています。生前の主イエスの生き方、生きる方向性を思い起こせば、飼い葉桶から十字架に至る道筋には、ブレがありません。神の謙遜、遜りそのものが主イエスにおいて実現されているからです。主イエスに信じ従う道とは、この世にありながら、全面的に同化してしまわない紙一重のところで、主イエスを見上げて生きていくことです。その道は平坦なものではありません。主イエスは十字架への道ゆきにおいて、その当時の世界観全体を相手にするようにして歴史を、神の歴史を貫かれました。主イエスを信じ従う者たちは、この世との紙一重の差に意義を見出すからこそ、主イエスのなさったこと、話されたことを、今度はわたしたちが倣うようにして、この世における責任的な歴史への参与に関わるように促すと当時に警告を与えているのではないでしょうか。

2011年11月20日 (日)

申命記15章7~11節 「いのちの分かち合い」三森妃佐子 牧師

今日は収穫感謝祭の日で収穫のめぐみを神に感謝する日です。しかし、今私たちの直面している現実は「収穫のめぐみを神に感謝します、アーメン」で終えることができません。それは、人口70億人の中で飢えに苦しんでいる人は9億2500万人。その中で日本は世界一食べ物廃棄量が多く、その量は3000万人分の年間の食糧に匹敵します。私たちが生活を変えることによって飢えに苦しんでいる人たちはいのちの糧をうることができるのです。生きることができるのです。これがいのちの分かち合いなのです。3.11東日本大震災、津波、そしてその後の台風被害は農村、漁村に打撃を与えました。飢えに苦しむこと、そして災害、人災など「神のめぐみ」に感謝と裏腹に私たちは「なぜ」と神に向かって問い続けています。しかし、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き痛みを知った」(出エジプト記3:7)とあるように私たちを存在したもう神は、そのような神なのです。そして本日の聖書の箇所申命記15章7-11節の契約を忘れてはならないと思います。決して忘れてはならないと思います。最後に詩をお読みします。「わたしは飢えていた」(作 ベルホールド・ブルクハルト/訳 伊藤規矩治)(「なぜ南は飢えるのか」日本ユニセフ協会パンフより) わたしは飢えていた。そのわたしの食糧を/あなたがたは家畜の餌にした わたしは飢えていた。そのわたしの肥えた土地に /あなたがたの会社は冬のトマトを植えたわたしは飢えていた。けれどあなたがたは/南米からのステーキを諦めなかった わたしは飢えていた。けれど米―わたしの日用の糧の育つ所に/あなたがたのための茶畑がつくられた  わたしは飢えていた。けれどあなたがたは砂糖きびや/マニオクから/自動車の燃料をつくっていた わたしは飢えていた。けれどあなたがたの工場廃水は/魚の住む水に毒を流している わたしは飢えていた。けれどあなたがたは金の力で/わたしの食糧を買いあげてしまった わたしは飢えていた。けれど私の国の畑には/あなたがたの贅沢のために/珍しい果物が植えてある あなたがたに怖いのは一体なんなのか。あり余る贅沢、有害な贅沢を/諦めることか/路線を切り換えることか/欧州共同体の政治家の権力か/自治体制を強化する運動か/隣人の横あいからにらむ目の色か/一体何が恐いというのだ私は飢えていた。けれどあなた方は/食べるものをくれなかった。

2011年11月13日 (日)

イザヤ書 6章1~8節 「今ここで」 

イザヤは不思議な幻を見ました。神が天に座り、衣の裾は神殿いっぱいに広げられ、神の周りには多くのセラフィムという天使たちが飛びまわっていました。このセラフィムというのは顔が人間で胴体がヘビで、羽が6枚あるのでした。神の顔を見ないために二枚が顔を隠し、二枚が恥ずかしいところを隠し、残りの二枚で羽ばたいて飛んでいるのでした。神を見ると死んでしまうと信じられており、天使でさえ顔を隠して神を見ないようにしていましたから、イザヤは幻を見た時に「ああ、神を見てしまった。わたしはもう破滅だ」と思いました。自分が唇の汚れたものだといったのです。旧約聖書では、身体の一部分が汚れたという言い方は、身体全体のことを表わします。神の「聖なる」あり方からして、自分の汚れとか愚かさ、弱さ、醜さや卑怯さ、そのような、どうしようもないちっぽけな人間の一人であることがイザヤには思い知らされたのでしょう。そのうちにセラフィムの一人がイザヤのところに飛んでやってきます。祭壇から取ってきた火ばさみに掴まれた炭火をイザヤの口につけました。このことによってイザヤのちっぽけな人間性は全て赦され、神から肯定されたのです。イザヤ書68節には次のように書かれています。そのとき、わたしは主の御声を聞いた。誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。 『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」と。神からイザヤに示された仕事は、人々が神に立ち返って、神への思いを相応しく整えていくことでした。しかし、人々は神の思いに近づくことをせず、イザヤは働けど働けど成果を上げられず、しかし決してあきらめることなく、神から与えたれた使命に対して「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」という言葉通りの生涯を送ったのです。苦しみに満ちた生涯でしたが、神の招きを受けた生き方の中で神への感謝と喜びに満ちていたに違いありません。わたしたちはどうでしょうか。神の願いは主イエスの言葉、「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉に生きることだと思います。神の仕事には色々なことがあります。誰もが一様にイザヤのように生きる必要はありません。それぞれ一人ひとりに出来ることやれることが用意されているのです。大切なのは、それら一つひとつの働きの背後には、まず神への感謝の気持ちがなければならないということです。そうでないと、自分はいいことをしているから、いい人間なのだと考えるところから思いあがり、自分を神のように考えてしまう危険が、ここには潜んでいるからです。この点をしっかりと心に刻み、神からの問いかけと預言者イザヤの答えを読み直して、わたしたちの歩むべき道への思いを整えられたいと願います。

2011年11月 6日 (日)

フィリピの信徒への手紙 3章20~21節 「思い出を整える」

わたしたちは、それぞれ故人への思い出を様々な仕方で抱えたままでいます。たとえば、会えない辛さ、充分に尽くせなかったというやり残し感や和解できなかった後悔などから完全に自由ではないからです。今日、わたしたちは、このような思いをそれぞれが抱えたままで、この場に集められています。わたしたちに求められているのは、自分を責める言葉を心に迎えることではありません。主イエスは、わたしたちの意識にも上らない心の奥深くにある悲しみや嘆きを、誰よりも深くご存知なのです。さらに、わたしたちの想いを十字架上の痛みと叫びにおいて、すでに担われてしまっているという事実から示されるのです。イエス・キリストは、ローマの価値観からもユダヤの価値観からも最も忌み嫌われていた十字架に磔にされ処刑されることによって、人間を覆い尽くすあらゆる闇の力、罪を担ってくださったのです。そして、死んでよみがえることによって、この世界と神の側の世界との仲介者となってくださったのです。やがて天に上られたのですが、天と地を繋ぐイエス・キリストの力は決して無効になってしまうことはありません。このような事情を受けとめるときに、わたしたちは、やがてわたしたちも神のもとに帰っていくべき運命にあることを踏まえながら、この世を責任的に生きていかなければならないことが確認されます。同時に、すでに向こう側に、神の側に移された人たちとの関係をイエス・キリストがとり結んでいてくださるという信頼の道が備えられているのです。故人と残されたわたしたちとの関係は今もなお生き続けているのです。会いたいという思いややり残し感を主イエス・キリストの神に向かって思いっきりぶつけてしまってもいいのです。故人へのマイナスの感情を神に向かって吐き出してしまっていいのです。神は聞き届けてくださいます。主イエスがその全能において受けとめてくださることは確かであると、わたしは信じています。これらの想いを祈りや嘆きの中で、とことん神に向かって投げかけていいのです。何故という疑いも、許せないという呪いさえも投げかけていいのです。しかし、そこが終着なのではありません。神の慰めの中、空虚さは満たされ、やり残し感はぬぐわれ、マイナスの感情は塗り替えられる時が、その先にあるのです。やがて、いつの日になるのか、神だけがご存知です。思い出や記憶が、ちょうどよいところに向かって整えられていくという信頼に生きることが、この世に残された者の責任です。

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