ローマの信徒への手紙11章13~24節 「歴史への参与」
この世の祝うクリスマスと教会の祝うクリスマスは、厳粛さや敬虔さという物差しからすれば、教会の方が素晴らしくて正しくてより優れていると考えがちですが、違いはほとんどありません。紙一重の差です。クリスマスの出来事に対して天に目を注ぎつつ、すでに来てくださった主イエスにおいて、やがて来てくださるであろう主イエスに対して畏れをもって待つことが赦されているという憐れみを知っているかどうかです。わたしたちは洗礼を受けることによって主イエスの死に与り、復活の出来事によって、天における希望を抱く、この世における寄留の民です。これが教会です。神の憐れみは旧約を読んでいくと、取りに足らない弱小の民が神よって救われていくという出エジプトなどの物語によって表わされています。同時に、神の憐れみを受けつつも裏切り、偽りの道、神を神としない偶像礼拝の誘惑、さらには、律法は本来良きものであるにもかかわらず「律法主義」へと脱落してしまうことによってしまった民でもあります。このキリスト者の現実をパウロは「土の器」と呼んだのです。教会は謙虚さを保ち、神への畏れを感謝として受けとめながらでないと、いつでも神からの脱落の危険を持っています。アドベントは、主イエスが今年も飼い葉桶に寝かされる仕方でこの世に来られたことを今一度新たに心に刻むことです。飼い葉桶の主イエスを思い浮かべるとき、教会は謙虚さを保ち、神への畏れを感謝として受けとめるのです。そしてこの謙虚さと神への恐れは飼い葉桶の主イエスにおいて実現された神の働きであるが故であることに気づかされていきます。この気付きに生きる者がキリスト者と呼ばれます。この人たちは、神と人とに愛されて成長し、十字架に向かう主イエスの道へと誘われています。生前の主イエスの生き方、生きる方向性を思い起こせば、飼い葉桶から十字架に至る道筋には、ブレがありません。神の謙遜、遜りそのものが主イエスにおいて実現されているからです。主イエスに信じ従う道とは、この世にありながら、全面的に同化してしまわない紙一重のところで、主イエスを見上げて生きていくことです。その道は平坦なものではありません。主イエスは十字架への道ゆきにおいて、その当時の世界観全体を相手にするようにして歴史を、神の歴史を貫かれました。主イエスを信じ従う者たちは、この世との紙一重の差に意義を見出すからこそ、主イエスのなさったこと、話されたことを、今度はわたしたちが倣うようにして、この世における責任的な歴史への参与に関わるように促すと当時に警告を与えているのではないでしょうか。
« 申命記15章7~11節 「いのちの分かち合い」三森妃佐子 牧師 | トップページ | ヨハネによる福音書5章36~47節 「神の道」 »
「ローマの信徒への手紙」カテゴリの記事
- ローマの信徒への手紙 12章15節 「生きるために」(2024.01.21)
- ローマの信徒への手紙 6章3~4節 「洗礼によって」(2023.10.01)
- ローマの信徒への手紙 12章1~8節「キリストに結ばれた体として」(2023.08.20)
- ローマの信徒への手紙 8章14~17節「わたしたちは神さまの子ども」(子ども祝福礼拝)(2022.11.20)
- ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」(2022.08.28)
« 申命記15章7~11節 「いのちの分かち合い」三森妃佐子 牧師 | トップページ | ヨハネによる福音書5章36~47節 「神の道」 »
コメント