ルカによる福音書 19章11~27節 「信頼して待つ」
今日のテキストはシリア・パレスチナの歴史的な状況を踏まえています。当時、シリア・パレスチナはローマ帝国という非常に強大な国の、いわば属国でした。王位を頂くためには、ローマに行ってローマ皇帝(または代表者)から認証してもらわなければなりません。この喩え話の前提はおそらく、ヘロデ大王の息子の一人、アルケラオスがローマ詣でをした時のことです。アルケラオスはヘロデ大王よりも相当能力が劣っており民衆から嫌われてもいたので、ローマ詣でに際し、人々がローマへ代表を送って相応しくないという嘆願をしたのです。結局ヘロデ大王の息子たちは四人で支配地を分割する分封領主となり、父の代より低い地位になりました。ライバルの二人がローマ詣でをすれば、どちらか一方が王位を受け、他方は権力を持たずに戻ってくることもあるわけですから、僕にとっては自分の主人が勝者としてもどってくるのか敗者としてなのか、という一種の賭けになるわけです。預かったムナを増やすことは、主人の側につくという立場の表明であり、勝者としての帰還に賭けることです。反対に、敗者と予測した僕は一ムナに手をつけず、それゆえに主人に忠実でないと非難されるのです。今日の喩えは、王の位を受けて帰ろうとしている人にイエス・キリストご自身を喩えて読ませようとしています。エルサレムでの十字架の死に向かう主イエスを、やがて来られる来臨の主イエスとして待つのかどうか、態度を問うのです。わたしたちがそれぞれ置かれている時代状況というものをイエス・キリストの福音という出来事において分析する、祈りつつ判断していくことが求められています。信頼して待つ姿勢で来たるべき主イエス・キリスト、その方の前に自分たちが相応しい僕であるのかどうなのか、お誉めに与ることができるような忠実な僕であるのか。それがたとえ小さな出来事一つひとつであって相応しいのかどうかをキリストの前で自問しつつ、この世を生き抜く、旅する共同体としての教会の役割なのではなかろうかと思います。一ムナをそれぞれ一人ひとりが貸し与えられています。貸し与えてくださった方への信頼において、それをどのように用いていくのか、その一ムナがその人の中で相応しい実を結んでいくかどうか、ということが問われているのです。来たるべき日に来られる主に対する忠誠心が問われているのです。この世に残されている者、この世に命が与えられている限り、その人はイエス・キリストから貸し与えられている責任から逃れることはできないのです。その責任に応じて祈りつつ歩んでいけ、すでにそこには主イエス・キリストが共におられるのだから安心せよ、という言葉を今日わたしたちは共に聞くことが赦されているのです。
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