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2011年10月 9日 (日)

使徒言行録 20章17~38節 「言葉が多すぎます」下郷亜紀神学生

私は神学校の実習で、横浜の寿町での炊き出しに通うようになり、また四月から災害ボランティア活動に参加しています。私は「あなたの罪悪感の代わりに東北に行く」と知人に訴えかけ、軍資金を募り、東松島市を中心に何度も往復しました。津波災害とは、不潔で臭いものであり、復興とは、その不潔で臭いヘドロの粉塵に塗れることを意味し、「復興をお祈りします」と口で言うことではありません。「人手が欲しい」と痛切に訴える被災地の声を、教会で説明しても「できることは、募金と祈りと節電だけ」という答ばかりでしたが、寿の人たちは興味を示してくれました。寿は年中物資がくるので、新品の夏物などがすぐ集まり、また解体業に携わる人からの助言もあり、連携が取れたことは幸いでした。被災地ではお寺の掃除をよく任されましたが、クリスチャンのボランティアの中には戸惑う人もいました。お坊さんは葬式や四十九日でてんやわんやで、お墓まで手が回らない。お骨が散乱し、墓石の上に船や車が載っている。人は悲惨な状況を前にすると「人間のおごりに対する神の怒りだ」とか、語りたくなりますが、作業をすると、人間だけでなく、根こそぎ流れてくる木々や、蜂の巣や、犬や、猫や、魚たちも被災していると判り、自然と言葉少なになります。被災した方々も、私たちが何か働いて初めて重い口を開いてくれます。災害時には、自然とボランティアが発生し、独特のユートピアが生まれるそうですが、神の国とはそのようなものかもしれません。賃金が絡めば、のろい人や、辛い仕事率先してやらない人は、腹立たしいでしょうが、ボランティアは全員等しく日当が出ないので、イライラしない。困っている人を手伝いたいという思いだけが共通で、信仰は無関係です。私はお寺を掃除していて、ふと思いました。人と人との間にあるものが神で、人が隣人に手を伸ばす時に、そこに神は存在する。だから目に見えないし、像にしてはいけないのではないか。故S・ジョブズ氏の座右の銘は「今日が最後の日と思って生きろ、いつかそれは本当のことになるだろう」だったそうですが、「悔い改めよ、神の国は近づいた」とは、そういう意味ではないか。明日、死ぬと判っていたら、誰も喧嘩しない。世界の終り、終末をいつに定めるか、というのは大切です。先月、このボランティアを通じて知り合った人と結婚しました。避難所の前で皆が祝ってくれました。私たちが掃除した畑で取れた野菜が食卓に上り、子供たちが軽トラックの荷台で「僕らはみんな生きている」を歌い、家族を失ったお弁当屋さんや床屋さんが腕を振るってくださいました。ボランティアの残したメッセージカードの1つに、「受けるより与える方が幸い」を見つけました。この言葉は、主イエス御自身が言っていた、と書かれていますが、福音書に記載はありません。言葉ではなく、キリストは、実際に隣人に手を伸ばしていたのだと思います。

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