詩編90 「とこしえの神の前で」
人間の生涯は、はかないものかもしれません。しかし、永遠の神の守りの中での生涯であれば、その儚さは祝福へと変えられていくのではないでしょうか。永遠の神の守りを信じて、限界あるこの世での命を人間が生きるべき態度は、神に命を日々頂くことによって生かされてあることへの応答として、祈り続けて毎日を過ごすことです。率直に、日々の困難や悩みなどを訴え続けていくとき、たとえわたしたちの期待している道筋ではなくても、逃げ道や解決策が用意されているという、心の底での楽観性に生きることが赦されています。この主イエス・キリストの楽観性に倣って暮らしていく方向性が、すでに備えられていることを信じていけばいいのです。永遠の神が、イエスキリストにおいて、限界をもつこの世界に介入したことによって人間と共に生きようとされていること、その主イエスが今日も、わたしたちを導き、共に祈っていてくださることを信じればいいのです。今日の詩編90の祈りは、本質的には、主イエス・キリストのゲッセマネでの祈りの先取りであり「みこころのままに」という委ねに生きる道を示すものです。このことを、限られた命をこの世で過ごしやがて、かの国へと向かう者の責任的な祈りとして、再解釈したいのです。その中で、今わたしたちの課題の一つひとつを、その場にあって丁寧に対処しながら、旅する教会としての群れの在り方を、神の祝福のもと模索し続けていくことのできる自由を感謝する者でありたいと願っています。キリスト教会が旧約を読む場合、新約聖書、とりわけイエス・キリストにおいて再解釈することができます。たとえば、ゲッセマネの園の祈りからです(マルコ14:32-42参照)。イエスの祈りに照らされて詩編 90の祈りを読み直していくとき、わたしたちのこの世での命が祝福に満ちたものであることを、あらためて知らされるのではないでしょうか。この永遠の神の守りの中で、限界のあるわたしたちの生涯を、祈りつつ感謝をもって責任的に歩みたいと願っています。そうすれば、主イエスの言葉を生きる希望が備えられていることに気づかされ励まされて、日ごとに感謝する暮らしへと、わたしたちが整えられていくでしょう。この生き方は主イエスの楽観的な言葉、たとえば「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:25-34参照)へと導かれていきます。この楽観性をもとにして、より困難な道を選ぶキリスト者の生き方へと整えられていくことを願います。
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