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2011年9月

2011年9月25日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節 「十字架を負うこと」

十字架はユダヤ人にとって律法の規定により神に呪われたものです。また、ギリシャ・ローマ世界においては、政治犯や奴隷の死として非常に疎んじられ軽蔑され、忌み嫌われた処刑です。人々には、この十字架を信仰の根拠とすることへの抵抗があったのでしょう。しかしパウロは、この十字架にしか依り頼むことはできないのだという信仰的立場を貫くのです。その忌むべき十字架に、神ご自身が独り子イエスを、いわば神が神であることを捨て去るようにして磔られることに救いを見出したのです。より正確に言えば、パウロはその十字架によって自らが見出されるという経験をしたのです。十字架には、何一つ頼るべき素晴らしさや自己確証を保証するような機能は与えられていません。しかし、にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、パウロはここにのみイエスから希望が与えられたのです。磔られたままの主イエス・キリスト(3:1後半参照)の死を自らが、すでに担わされてしまっているが故に、イエスの十字架と、その復活の力に生きていることを述べることができたのです(2:18-20参照)。パウロにとっての「原理に従って生きていく」とは、この信仰的な立場に固執することです。ここでの「原理」とは「基準」と訳す方が理解しやすいと思います。このような十字架理解の基準によってキリスト者は規定されているのです。弱いわたしたちも、十字架に与っていくならば、強さに与って生き残っていく力が備えられているという「信仰の基準」があるのです。だからこそ、パウロは「十字架を誇る」ことや「弱さを誇る」ことによって、自らのありのままの、見た目で分かる病を自らさらけ出します。一見無価値で力なく、愚かさと汚れに満ちている十字架、軽蔑と弱さの十字架、ここからしか、復活の力によって新しく生かされていくことはあり得ないという逆説、ここにキリストによって信仰が与えられるのです。ここにキリストにあってキリストに信じて従う決意が与えられた人の人生の歩み方の「基準」「原理」が備えられているのです。今一度、パウロに倣って、わたしたちの信仰的基準が十字架にしかないことを確認し、イエス・キリストの磔られているこの十字架の前で、信じ従う者へと招かれていることを確認し、その促しに身を委ねる者とされたいと願います。この事実は、わたしたちによって見出されるものでは決してありません。十字架上の主イエス・キリストから、わたしたち一人ひとりが探し出され、見出され、「生きよ」という促しを聴き始めるところから、何度でも新しく始めていく事柄なのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ8:34)」わたしたちには自分の十字架を負う力がすでに備えられているのです。

2011年9月18日 (日)

創世記 25章8節 「とこしえの神の前で」

旧約聖書を読んでいくと、確かに「長寿の幸福論」と呼ばれる記述が数多くあります。今とは比べ物にならないくらい平均寿命は低く、なおかつ過酷な環境と時代を生き抜くことは、ただそれだけでも偉業だと言わなくてはなりません。このような人生の旅を重ね、祝福された生涯の原型をアブラハムに見ることができます。アブラハムの物語は創世記11章の終り辺りから始まり、先程読んでいただいた25章8節まで続きます。祝福された生涯の原型を見ることができるのは、アブラハムが必ずしも人格的に優れていたというわけではありません。神の語りかけに絶えず耳を澄まし、神への応答として礼拝をささげる中で自己相対化がなされ、それ故に冷静さと堅実さに生きることができたのです。このアブラハムを、だからこそイスラエルの民は普遍的な世界大的な意味合いで信仰の父と呼び、イエスをキリストと告白する教会も、アブラハムに祝福された生涯の原型を見出してきたのです(12:1-9参照)。アブラハムは神の示しに従って、父の家を離れ、行き先も知らされないまま旅立ちます。その生涯において牧畜民として牛や羊を引き連れての旅を続けます。土地取得と子孫繁栄の約束は示されていますが、それを自分で確認するよりも、ただ信じて歩みます。やっと生まれた独り子イサクを神にささげるように言われた言葉に従っていく姿など数え切れないほどの困難に遭遇する波乱万丈の生涯でしたが、その度ごとに、いつも神に守られ、支えられていた生涯、それが「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と語られているのです。アブラハムの約束に生きる信仰的態度から顧みると、神を信じる人々は齢を重ねる中で、今まで積み重ねてきた経験や知識、あるいは体力や気力、記憶力のような力がそぎ落とされていきつつ、その信仰が相対化されることに向かっていくのです。このアブラハムに祝福された生涯の原型を見ることによって示されるのは、高齢者への尊敬と、より若い者が誠実に対していくということです。その関係のただ中にこそ、主イエス・キリストにあって教会での、より相応しい関係性の可能性が示されているのです。また、その関係性を育て続けていくことの中に御旨が確かにあることを、今日は共々冷静に受け止めたいと願っています。アブラハムに祝福された生涯の原型を見出しつつ歩む者には、この人生という旅が同じように祝福されていることをキリストにあって受けとめ、冷静に喜ぶことができるのです。

2011年9月11日 (日)

詩編90 「とこしえの神の前で」

人間の生涯は、はかないものかもしれません。しかし、永遠の神の守りの中での生涯であれば、その儚さは祝福へと変えられていくのではないでしょうか。永遠の神の守りを信じて、限界あるこの世での命を人間が生きるべき態度は、神に命を日々頂くことによって生かされてあることへの応答として、祈り続けて毎日を過ごすことです。率直に、日々の困難や悩みなどを訴え続けていくとき、たとえわたしたちの期待している道筋ではなくても、逃げ道や解決策が用意されているという、心の底での楽観性に生きることが赦されています。この主イエス・キリストの楽観性に倣って暮らしていく方向性が、すでに備えられていることを信じていけばいいのです。永遠の神が、イエスキリストにおいて、限界をもつこの世界に介入したことによって人間と共に生きようとされていること、その主イエスが今日も、わたしたちを導き、共に祈っていてくださることを信じればいいのです。今日の詩編90の祈りは、本質的には、主イエス・キリストのゲッセマネでの祈りの先取りであり「みこころのままに」という委ねに生きる道を示すものです。このことを、限られた命をこの世で過ごしやがて、かの国へと向かう者の責任的な祈りとして、再解釈したいのです。その中で、今わたしたちの課題の一つひとつを、その場にあって丁寧に対処しながら、旅する教会としての群れの在り方を、神の祝福のもと模索し続けていくことのできる自由を感謝する者でありたいと願っています。キリスト教会が旧約を読む場合、新約聖書、とりわけイエス・キリストにおいて再解釈することができます。たとえば、ゲッセマネの園の祈りからです(マルコ14:32-42参照)。イエスの祈りに照らされて詩編 90の祈りを読み直していくとき、わたしたちのこの世での命が祝福に満ちたものであることを、あらためて知らされるのではないでしょうか。この永遠の神の守りの中で、限界のあるわたしたちの生涯を、祈りつつ感謝をもって責任的に歩みたいと願っています。そうすれば、主イエスの言葉を生きる希望が備えられていることに気づかされ励まされて、日ごとに感謝する暮らしへと、わたしたちが整えられていくでしょう。この生き方は主イエスの楽観的な言葉、たとえば「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:25-34参照)へと導かれていきます。この楽観性をもとにして、より困難な道を選ぶキリスト者の生き方へと整えられていくことを願います。

2011年9月 4日 (日)

ヤコブの手紙1章19~27節 「御言葉を行う人」

ヤコブの手紙の著者は、この世を厳しく見つめています。富などの欲望に取りつかれた人は、信仰と現実生活が乖離しており、二心があり、二元的な価値観でよし、と考えてしますのです。言葉を聞くが、実行に移さない者は、「忘れやすい聞き手」であり、そのあり方が「鏡を見るあり方」において示されます。鏡で自分の姿を眺めた者が、鏡の前から立ち去ると、自分の姿がどのようであったかを忘れる。礼拝で神の言葉を聞くことは、鏡を見ることによって自分の姿を知ることになる、しかし、礼拝において神の言葉を聞いても、教会を立ち去れば忘れてしまうのは、結局聞かなかったのと同じになってしまうのです。神は、言葉によってわたしたちを創ったのです。それは、キリスト者が「彼の被造物として」つまり、被造物の中から選ばれ神にささげられた特別な存在として、神の意志を体現していく使命に生きることへの促しがあります。この根拠としての神の言葉を18節の「真理の言葉」として理解できます。この「真理の言葉に」促される生とはどのようなものであるかが、19節以降で述べられます。欲望への対処法としての神の言葉の実践です。わたしたちが「試み」に遭遇するのは、自分の心の中にある欲望のゆえです。しかし、本来わたしたちが自分自身の中に持っているのは、悪しき欲望なのではなく、既に与えられている神の言葉なのです。この神の言葉を聞くだけでなく、実行者にならなければならないのです。受け入れることは実行者になることだからです。イエス・キリストによって形成される教会は、イエスご自身から正される必要があります。ルカによる福音書では「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と平地の説教で語られています。わたしたちは、自由をイエスから示され続けている存在です。主イエスによってあきらかにされる、わたしたち自身の姿を今一度、主イエスにある相応しさなのかどうか、確かめる必要があります。ヤコブの手紙の今日の聖書によって示される欲望による汚れや悪を退け、富に溺れて、自分を見失うような信仰の在り方から離れることです。また、教会の中で、他者との関係を利害関係や上下関係に求めるのではなくて、イエスの愛にのみ基づく関係性を生きていくことが、「真理の言葉」を「植えつけられた」キリスト者としての生活なのではないでしょうか。この世において証し人としての歩みに絶えず立ち返る中で「御言葉を行なう人」として歩むことへの赦しが語られているのです。主イエスによって、そのような者としてわたしたちがこのようにおいて歩む道がすでに用意されていることへの信頼のもと、この一週間過ごしていきたいと思います。

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