ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節 「十字架を負うこと」
十字架はユダヤ人にとって律法の規定により神に呪われたものです。また、ギリシャ・ローマ世界においては、政治犯や奴隷の死として非常に疎んじられ軽蔑され、忌み嫌われた処刑です。人々には、この十字架を信仰の根拠とすることへの抵抗があったのでしょう。しかしパウロは、この十字架にしか依り頼むことはできないのだという信仰的立場を貫くのです。その忌むべき十字架に、神ご自身が独り子イエスを、いわば神が神であることを捨て去るようにして磔られることに救いを見出したのです。より正確に言えば、パウロはその十字架によって自らが見出されるという経験をしたのです。十字架には、何一つ頼るべき素晴らしさや自己確証を保証するような機能は与えられていません。しかし、にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、パウロはここにのみイエスから希望が与えられたのです。磔られたままの主イエス・キリスト(3:1後半参照)の死を自らが、すでに担わされてしまっているが故に、イエスの十字架と、その復活の力に生きていることを述べることができたのです(2:18-20参照)。パウロにとっての「原理に従って生きていく」とは、この信仰的な立場に固執することです。ここでの「原理」とは「基準」と訳す方が理解しやすいと思います。このような十字架理解の基準によってキリスト者は規定されているのです。弱いわたしたちも、十字架に与っていくならば、強さに与って生き残っていく力が備えられているという「信仰の基準」があるのです。だからこそ、パウロは「十字架を誇る」ことや「弱さを誇る」ことによって、自らのありのままの、見た目で分かる病を自らさらけ出します。一見無価値で力なく、愚かさと汚れに満ちている十字架、軽蔑と弱さの十字架、ここからしか、復活の力によって新しく生かされていくことはあり得ないという逆説、ここにキリストによって信仰が与えられるのです。ここにキリストにあってキリストに信じて従う決意が与えられた人の人生の歩み方の「基準」「原理」が備えられているのです。今一度、パウロに倣って、わたしたちの信仰的基準が十字架にしかないことを確認し、イエス・キリストの磔られているこの十字架の前で、信じ従う者へと招かれていることを確認し、その促しに身を委ねる者とされたいと願います。この事実は、わたしたちによって見出されるものでは決してありません。十字架上の主イエス・キリストから、わたしたち一人ひとりが探し出され、見出され、「生きよ」という促しを聴き始めるところから、何度でも新しく始めていく事柄なのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ8:34)」わたしたちには自分の十字架を負う力がすでに備えられているのです。
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