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2011年9月18日 (日)

創世記 25章8節 「とこしえの神の前で」

旧約聖書を読んでいくと、確かに「長寿の幸福論」と呼ばれる記述が数多くあります。今とは比べ物にならないくらい平均寿命は低く、なおかつ過酷な環境と時代を生き抜くことは、ただそれだけでも偉業だと言わなくてはなりません。このような人生の旅を重ね、祝福された生涯の原型をアブラハムに見ることができます。アブラハムの物語は創世記11章の終り辺りから始まり、先程読んでいただいた25章8節まで続きます。祝福された生涯の原型を見ることができるのは、アブラハムが必ずしも人格的に優れていたというわけではありません。神の語りかけに絶えず耳を澄まし、神への応答として礼拝をささげる中で自己相対化がなされ、それ故に冷静さと堅実さに生きることができたのです。このアブラハムを、だからこそイスラエルの民は普遍的な世界大的な意味合いで信仰の父と呼び、イエスをキリストと告白する教会も、アブラハムに祝福された生涯の原型を見出してきたのです(12:1-9参照)。アブラハムは神の示しに従って、父の家を離れ、行き先も知らされないまま旅立ちます。その生涯において牧畜民として牛や羊を引き連れての旅を続けます。土地取得と子孫繁栄の約束は示されていますが、それを自分で確認するよりも、ただ信じて歩みます。やっと生まれた独り子イサクを神にささげるように言われた言葉に従っていく姿など数え切れないほどの困難に遭遇する波乱万丈の生涯でしたが、その度ごとに、いつも神に守られ、支えられていた生涯、それが「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と語られているのです。アブラハムの約束に生きる信仰的態度から顧みると、神を信じる人々は齢を重ねる中で、今まで積み重ねてきた経験や知識、あるいは体力や気力、記憶力のような力がそぎ落とされていきつつ、その信仰が相対化されることに向かっていくのです。このアブラハムに祝福された生涯の原型を見ることによって示されるのは、高齢者への尊敬と、より若い者が誠実に対していくということです。その関係のただ中にこそ、主イエス・キリストにあって教会での、より相応しい関係性の可能性が示されているのです。また、その関係性を育て続けていくことの中に御旨が確かにあることを、今日は共々冷静に受け止めたいと願っています。アブラハムに祝福された生涯の原型を見出しつつ歩む者には、この人生という旅が同じように祝福されていることをキリストにあって受けとめ、冷静に喜ぶことができるのです。

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