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2011年9月 4日 (日)

ヤコブの手紙1章19~27節 「御言葉を行う人」

ヤコブの手紙の著者は、この世を厳しく見つめています。富などの欲望に取りつかれた人は、信仰と現実生活が乖離しており、二心があり、二元的な価値観でよし、と考えてしますのです。言葉を聞くが、実行に移さない者は、「忘れやすい聞き手」であり、そのあり方が「鏡を見るあり方」において示されます。鏡で自分の姿を眺めた者が、鏡の前から立ち去ると、自分の姿がどのようであったかを忘れる。礼拝で神の言葉を聞くことは、鏡を見ることによって自分の姿を知ることになる、しかし、礼拝において神の言葉を聞いても、教会を立ち去れば忘れてしまうのは、結局聞かなかったのと同じになってしまうのです。神は、言葉によってわたしたちを創ったのです。それは、キリスト者が「彼の被造物として」つまり、被造物の中から選ばれ神にささげられた特別な存在として、神の意志を体現していく使命に生きることへの促しがあります。この根拠としての神の言葉を18節の「真理の言葉」として理解できます。この「真理の言葉に」促される生とはどのようなものであるかが、19節以降で述べられます。欲望への対処法としての神の言葉の実践です。わたしたちが「試み」に遭遇するのは、自分の心の中にある欲望のゆえです。しかし、本来わたしたちが自分自身の中に持っているのは、悪しき欲望なのではなく、既に与えられている神の言葉なのです。この神の言葉を聞くだけでなく、実行者にならなければならないのです。受け入れることは実行者になることだからです。イエス・キリストによって形成される教会は、イエスご自身から正される必要があります。ルカによる福音書では「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と平地の説教で語られています。わたしたちは、自由をイエスから示され続けている存在です。主イエスによってあきらかにされる、わたしたち自身の姿を今一度、主イエスにある相応しさなのかどうか、確かめる必要があります。ヤコブの手紙の今日の聖書によって示される欲望による汚れや悪を退け、富に溺れて、自分を見失うような信仰の在り方から離れることです。また、教会の中で、他者との関係を利害関係や上下関係に求めるのではなくて、イエスの愛にのみ基づく関係性を生きていくことが、「真理の言葉」を「植えつけられた」キリスト者としての生活なのではないでしょうか。この世において証し人としての歩みに絶えず立ち返る中で「御言葉を行なう人」として歩むことへの赦しが語られているのです。主イエスによって、そのような者としてわたしたちがこのようにおいて歩む道がすでに用意されていることへの信頼のもと、この一週間過ごしていきたいと思います。

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