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2011年8月

2011年8月28日 (日)

テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節 「来臨から今を生きる」

「キリスト者とは、すでに来てくださった御子イエスに与えられた信仰において、やがて来てくださる御子に希望を抱きつつ、この世を旅する群れとして生ける主のからだであるところの具体的な教会に所属するものです。すでに来てくださる主、やがて来てくださるところの主にのみ、所属するということは、その生活態度は生けるまことの神に仕えるよう導かれるものであって、偶像から離れていくものです。テサロニケの街はローマ帝国下で非常に栄えており、色々な産業があり、貿易が盛んな街で、従って、多民族、多宗教の街でした。この街にあって、イエス・キリストの神を信じ、偶像礼拝をしないという教会の人々は、街の中で浮いてしまっていたようです。だからこそ、パウロが賞賛するのです。パウロがテサロニケの教会に対して「倣う」ことを求め、テサロニケの教会がギリシャ世界に「倣」わなかったことをしなかったことを、今日に展開する道、すなわち、わたしたちが、自らの信仰を正しながら、「倣う」ことへの方向が、ここに示されているのではないでしょうか。日本は、今、どこにいるのでしょうか。偶像礼拝の誘惑は、全くそのまま現代の課題です。むしろ、この時憂慮された方向にすでに進んでしまっている国です。そして、偶像は巨大化し強大化しています。偶像の日本的なありようの代表は、言うまでもなく象徴天皇制にあります。確かに、第二次大戦下の天皇制は、絶対主義的なものであったという事実はあります。しかし、この天皇制のありようを純粋に抽出していくと、現在の象徴天皇制になるのです。象徴天皇制の機能は、日本国憲法1条によって規定されているように、国民を統合するものです。確かに、日本国憲法は世界的に見て、すぐれた憲法であると言えます。とりわけ、9条の非戦の動機は特にそうです。しかし、まず最初に第1条が立ちはだかっているのです。「日本人」というありようの偶像化によって、外国人、外国籍、つまり、象徴天皇制の枠に入らない人々への草の根ファシズムともいうべき状況があげられます。たとえば、入管法や外登法を無意識のうちに黙認してまっている一般的な日本人の態度に表されています。象徴天皇制という偶像が作り出す現代の世界観、これは人間の生命の尊厳を脅かし続けます。偶像から離れるために、わたしたちは、考えつつ想像していく力、夢見る力、共に喜び共に泣くという共感する力、明日を生きるための過去の記憶を次代に伝えていく力、これらの力を研ぎ澄ましていくことを、偶像から自覚的に離れることで培っていくことが求められているのではないでしょうか。 教会の主イエスに「倣う」あり方から示される価値観は、この世の価値観やあり方一切を相対化しうる視座に立つことへと促しているのです。

2011年8月21日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「慈しみの中で」

パウロに敵対する勢力の信仰とは、おそらく、「強さを誇る」信仰であった、とわたしは思います。「強さ」とは、様々あります。能力、説得力、見栄えのよさ、財産の豊かさ、軍事力、たくましさ、力強さ、知識や知恵の量と質、宗教的特権あるいは体験、血筋の正しさなどなど、多くあります。彼らはこの「強さ」でもって力強い伝道をしたのでしょう。信じれば、病気が治るのはもちろん、誰よりも優れていることが認められ、さらには、世間からも一目置かれた存在になれるという風に。これは、港町として栄え、様々な文化や価値観、思想などを蓄積し、それ故富に溺れていくコリントの価値観と共鳴する、伝道者たちの台頭を指摘することができるかもしれません(コリントの町の価値観は現代日本と決して無縁ではありません)。彼らはおそらく、パウロには「愚かさ」「弱さ」が満ちみちているではないか、そんな人が何故使徒なのか、福音を語る資格があるのか、と喧伝し、その非難の言葉はパウロにも届けられたのでしょう。パウロは自分に与えられたとげを離れ去らせてくださるように3回願ったといいます。文字通り3回ということではありません。非難の言葉を受けた時、また、自分の姿を思うとき、ことあるごとに、病気を治してくださいと祈り続ける日々が続いた、ということです。しかし神からの言葉は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この神の思いをパウロは受け止めます。そうすると、一気に道が拓けて、パウロの信仰は方向が定まったのです。このようなパウロの立ち位置を思い巡らす中で一冊の本に出会いました。精神障害やアルコール依存などを抱える人々の共同体「べてるの家」メンバーへのインタビューを収めた本です(『治りませんように』斉藤道雄・みすず書房)。その中で語られるある方の言葉を紹介します。「弱さっていうかなんかね、それでいいんだよみたいな。でも、いまだあいかわらずやっぱり、(自分たちは)ここで安心してしゃべれて、安心して相談できる人がいないと生きていけない、弱い存在であるっていうことには全く変わりないですよ。それが最近、全然治ってないっていうか、それなのに楽しいぞ、みたいな。よかった」。ここで語られているのは、治ってしまうことが目的にされてしまうのではなくて、治っても治らなくても、今、ここにこうして一緒に生きている感覚が楽しいとされていることです。病気が治らなくても、今が安心のもと保証されていることへの集中がみられます。わたしたちの「弱さ」が主イエスによって、明らかにされ、復活のキリストが待っていてくださる場所、ここに復活に与る生命への招きがあるのではないでしょうか。

2011年8月14日 (日)

マルコによる福音書9章35~37節 「子どもと大人」 小山廣重

最近、幼児教育の分野で、具体的な教育法を提示するモンテッソーリ法が注目されています。この教育法の創始者マリア・モンテッソーリ(1870~1952)は医師でした。初めての仕事が精神病院の助手でした。そこでの経験から精神病者の治療は医学的治療よりも人間の尊厳を基調とする教育的治療こそ必要と発表し、それが契機となり、国立特殊学校がイタリアで設置されました。その学校の主任となり、観察に基づく子どもの教育についての実証を重ねました。医師として世に出ましたが、教育の道に自分の使命があるとして、ローマ大学に戻り、哲学、心理学、教育学を学びました。数年して、健常児の学齢前の子どもの教育に携わることになりました。モンテッソーリは、この教育の場を子どもが主人である「子どもの家」と名付けて、ここで更に子どもの可能性を探求し、モンテッソーリの教育法を確立してゆきました。その中で、およそ3歳までの期間を、適応の期間として人の一生の中で非常に重要な期間であることを見出しました。すなわち、子どもはこの期間に、意識することなく、何の苦労も感じずに、環境を吸収してしまいます。それも人にとって大切なものすべてを、一滴も漏らさずに吸収するというのです。吸収したものは子どもの精神に生命記憶として一生記憶されて続けているということです。母国語の吸収はその典型的なものです。子どもは、この潜在意識による吸収により、その時代と民族の典型的な人となります。しかも、考え方と文化も共にです。ですから、人は、どんなに酷寒の地に生まれようと、あるいは暑い砂漠の地に生まれようと、自分の生まれた場所を他のどのような場所よりも愛します。これに対して、大人は記憶しようとするものは意識的に努力しなければ、記憶できません。また、記憶しても、思い出す機会が少なければ、忘れてしまいます。この生命記憶により、子どもは時代と時代の文化を繋ぐ結び輪のようなものです。「人間の精神を変えるには、子どもに働きかけるべきです。」とモンテッソーリは言うのです。モンテッソーリが教育の目的に掲げたものは「戦争の無い調和のとれた世界を築くことができるよう、また更には、人間一人一人が、宇宙の進化に貢献できるまでに人間の精神レベルを高めること」でありました。私たちも子どもやいと小さき方々を主イエスをお迎えするように忍耐と献身的態度を持って受入れる者となってゆきたいと思います。

2011年8月 7日 (日)

マタイによる福音書5章13~16節 「地の塩、世の光」

日本基督教団は1941年に成立しましたが、その方向性は聖書のキリストを信じることで皇国の道を歩むのが教会であるとの理解でした。戦争協力のために成立した教団であるという惨めで情けない歴史をもっていることは否定できません。このことへの反省が「第二次大戦下の日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」を生み出します。その大筋は「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。」とあり、「正しい判断をなすべきでありました。」との指摘は無効にすべきではありません。わたしたちは今日、平和聖日において「あなたがたは地の塩である。」という言葉と「あなたがたは世の光である。」という言葉を聞きました。これまでの日本基督教団の歩みから、教団の諸教会は「世の光」「地の塩」であったとは、お世辞にも言えない状況を知ることができます。しかし、聖書が語りかけるところによれば「あなたがたは」「である」と断言されてしまっていることに驚きと厳粛さを覚えます。有無を言わせぬ響きがここにはあります。地を味付けより豊かにならしめて行く働きが教会には、既に与えられてしまってあり、それこそがあなた方なのだ、というのです。塩の働きがなくなってしまえば、もはや塩とは呼ばれず、捨てられるような無価値なものであるはずだけれど(そしてそれほど教会は惨めな姿だけれども)、そうではなくて、「地の塩」「である」と宣言されているのです。また、同じように「世の光」「である」として、この世を照らす働きが既に与えられてしまっている、というのです。わたしたちは、どのように受け止めるのでしょうか。めっそうもない、そんな値打ちは、わたしたちにはありません、と言うのでしょうか。これからは反省して、そのように努力していきます、という言葉が求められているのでしょうか。わたしは違うと思います。今あるがままの在り方に「塩」の働き、「光」の働きが「である」という断言によって示されていると受け止めます。この広い世界にあって、一つまみの塩でしかなく、「光」といっても、当時のランプは器に油を入れて灯心を差し込んだくらいの、弱々しい光しか放つことができないものだったでしょう。しかし、あなたがたと呼ばれるわたしたちは「である」という主イエスの言葉によって新しい可能性に拓かれていくでしょうし、一つまみの塩、弱々しい灯火として、この世を旅する教会としての務めに、国家に代表される権力体系に関わりがすでに与えられてしまっているのです。どのような決断をなすべきかと判断する前に、「である」という言葉によって、わたしたちは主イエスが十字架へと向かわれた道に連なるようにされてしまっていることに気が付くようにと、「である」と宣言され、呼びかけられているのです。

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