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2011年7月 2日 (土)

1_主日礼拝

※会堂に集まって礼拝することに不安を感じている人もいらっしゃると思います。

 会堂に集っての礼拝は続けていますが、不安がある中で無理に出席することをしなくても大丈夫です。

 

<礼拝予告 10月9日> 

神学校日礼拝    午前10時30分

聖書  ルカによる福音書 5章1~11節

説教 「網をおろして」

説教者 後藤田 由紀夫  神学生

 

上大岡教会のユーチューブのチャンネルです

日曜日の午前10時半から礼拝のライブ配信を行っています

下の「日本基督教団上大岡教会 主日礼拝」をクリックするとユーチューブチャンネルが開きます

「概要」欄の「上大岡教会ライブ配信」から見られます

動画は日曜限定です

 

上大岡教会ユーチューブチャンネル

 

10月2日(日)の配信が途切れてしまいました。

申し訳ありません。

以下に説教原稿メモを張り付けておきますので、参考になさってください。

ルカによる福音書16章19-31節 「神の食卓の風景」

2022年10月2日(日)  上大岡教会 礼拝説教       原 宝

 おはようございます。本日は、ルカによる福音書16章19-31節をテキストにして「神の食卓の風景」という題で説教します。

 本日は「世界聖餐日」ですが、残念ながら新型コロナウイルス感染症のことへの配慮から、わたしたちの教会では聖餐式を行いません。しかし、聖餐によって開かれる世界観に向かう志が整えられたいと願いつつ、お話します。まず、この「世界聖餐日」についてですが、何度か説明したことがあるかと思いますが、簡単に成立の経緯を説明します。事の始まりは、世界が戦争へと傾斜していく中で、1940年に北米キリスト教教会連盟によってなされた提唱によります。そこで言われていることは「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」であるというものです。これが戦後、世界教会協議会(WCC)から広められ、これを受けて、日本キリスト教協議会(NCC)を通じて日本の教会にも広がってきたものです。様々な国々の価値観や考え方を越えていくことがここには含められています。世界の教会がキリストのからだと血を分かち合うことを通して、主にあって一つであることを自覚し、違いや対立や反目や憎しみなどをお互いが抱える課題を担い合う決意を新たにする日であるとされます。聖餐とは教会の儀式の一つですが、発端が1940年であったことからして、目指す方向は平和への意志と決して無関係ではありません。聖餐式という儀式を教会が執り行うことによって、主イエスの目指した世界観を確認していくことでもあるのです。プロテスタント教会は、洗礼と聖餐を聖礼典(サクラメント)という特別な儀式として理解していますが、このことからすれば、通常考えられるように聖餐について、ただ単に洗礼の更新であるという理解をより深め、同時により広く受け止め直していく方向を整えることでもあります。この方向の確認も含めていきたいと思います。

 今日は金持ちのラザロの物語の解釈から読み解きたいと思います。ユダヤ教では、長寿であること、また財産や子孫が増やされることが神の祝福を受けることだとの理解が数多く見受けられます。しかし、主イエスは、それらを逆転させているのです。弱いもの、貧しいもの、病人、障がい者など小さくされている人にこそ、神の憐みが注がれ祝福されるという発想です。今日の聖書の少し前のところでは1613 節の「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とまとめられる主イエスの言葉に対して、1614節では「 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあることから分かります。また、マタイ福音書の祝福の言葉では「心の貧しい人々は、幸いである」とありますが、ルカ福音書ではマタイのように「心の」という精神化され内面化された言葉ではなくて、端的に「貧しい人々は、幸いである」とされます。いずれも「天の国」あるいは「神の国」は、その人々のものであるとの指摘がなされています。その他にも特にルカによる福音書と使徒言行録には、劣者優勢という考え方はいくつもあります。これはもちろん、歴史上の主イエスの立ち位置を表しているものですが、ルカ・言行録の教会の立場と、そこからどのようにしたいのかの表れもあるのです。おそらく、ルカと言行録の教会は、当時のギリシャ・ローマ世界の中にあって比較的に経済的に裕福な国際人たちの集まりであったと考えられます。おそらく社会的立場からすればより優位である、つまり富んでいたのでしょう。しかし、自分たちの富んでいる状況に対して「これでいいのか」という問題意識があったと思われます。自分たちは今日の聖書で言えば、「ある金持ち」の立場であることの自覚がありつつ、それゆえ、あの「ラザロ」に代表される貧しい人たちとの対比において審かれている存在なのだという自覚があったと思われます。1626節の「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」という現実を主イエスからの厳しい問いかけとして受け止める姿勢が、ここにはあるのです。自分たちの富んでいる場と貧しく小さくされている人々との間にある「大きな淵」は決して越えられないとの断言の中で、それでもつながることができないのかという問題意識があるのではないでしょうか。

 今日の物語では、「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と金持ちの姿を大袈裟に表現しながら自分たちを見つめ直し、「ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」とある、そのラザロとの間の「大きな淵」を越えられない不可能性を、主イエスからの導きによって「可能性」へと導かれたいという願い、あるいはこの断絶を乗り越えてみないかという主イエスからの挑戦として受け止めていたのではないでしょうか。今日の物語では、死後の世界での出来事であると場面が設定されています。しかし、この問いは今生きている、金持ちと貧しい人との関係なのだという問題意識があったはずです。

 人類の先祖の代表格であるアブラハムにラザロが今招かれており、それを見ている金持ちという風景になっています。1623節を新共同訳は「そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」とありますが、ニュアンスが正確ではありません。前の口語訳も岩波の佐藤研も田川建三も新しい共同訳も、新共同訳での「すぐそばにいる」を「懐」に抱かれているイメージとして訳しています。こちらが正しいです。つまり、当時のギリシャ・ローマ世界での宴会では左を下側に向けて寝そべる形であったことを前提としています。金持ちの側から見て姿勢というか態勢がラザロがアブラハムの懐に見えるということは、寝そべるアブラハムの前にラザロがいることになります。宴会の主人のすぐ前というのは、一番大切にされた客の席順になるのです。つまり、このラザロこそがアブラハムの第一番の大切にされている客だということです。これが、天上界において今行われているということがルカと言行録の主張です。

 この現実に対して金持ちはアブラハムと次のような会話を交わしています。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 ここにあるのは、逃れることのできない金持ちに対する審きです。しかし、金持ちであること自体が悪だとはルカは考えてはいないようでもあります。今日の聖書の少し前の16章の初めの記事での、いわゆる「不正な管理人」についての説教の中では、証文にある借金の額を安く書き換えることについて168節で「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」とし、主イエスによるまとめの言葉として「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」。このように語るのです。つまり、富に関して「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言い切ることによって、より良い関係へと整えていく可能性に対して開いていると言えるのです。

 ルカ福音書での主イエスは活動初期においてナザレの会堂でイザヤ書を次のように読みました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」。

 わたしたちは今日の聖書を読みながら自らを省みると、いやいやいや金持ちの側じゃないよと思いがちだとは思います。しかし1620節以降の「ラザロというできものだらけの貧しい人」という生き方も、ここにいるわたしたちの多くはしてはいないのではないでしょうか。両者を比べれば、少なからず金持ちの側により近いと言わざるを得ないのではないでしょうか。神の恵みの方向性は、主イエス・キリストにおいて事実として起こされました。このラザロの姿はただ単に数しく虐げられた惨めな人間が、今や父祖アブラハムのもとで宴会に与っているということではありません。あのラザロの姿は、イザヤ書53章を思い起こさせます。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」。すなわち、ラザロにおいて現わされているのは、貧しく弱く小さくされ、軽蔑などを強いられて十字架に至った主イエス・キリストの姿なのではないでしょうか。ラザロとの間にある「大きな淵」とは、わたしたちと主イエス・キリストとの間にある「大きな淵」でもあります。

 今日の聖書のラザロの姿を、主イエス・キリストから照らされて読み返していくならば、金持ちという高い場所からラザロを見下ろして憐れむ方向ではなくて、主イエスがそうであったように共となり仲間となる道につながっていくべき志を整えていくことが、聖餐の方向を定めていくことになるのではないかと考えるのです。「神の食卓の風景」とは、アブラハムの懐に抱かれたラザロの姿として描かれていることからすれば、十字架の惨めさに至る主イエスと共なる食卓の方向性は、いと小さき者である主イエスと共に先ほどの金芝河の言葉に共鳴しながら、「大きな淵」を乗り越えていくという挑戦的な生き方へのチャレンジがあるのです。「飯はみんながたがいに分かち食べるもの」という方向を目指して歩んでいくところに「神の食卓の風景」が立ち現われるという招きを信じることができるのです。この主イエスからの招きに基づく挑戦に応えてこうと願うものです。

 

祈り

いのちの源である神!

開かれた聖餐とは、ただ単に洗礼を受けているかどうかという問題ではありません。

どのように食べていくのか、つまりどのような方向に向かって歩むのかについてのことでもあります。

神の国の食卓に日毎に招かれていることを知らしめてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                               アーメン。

 

※ご覧になった方は、お気づきのことと思いますが音質が良くありません。

 そこでお願いなのですが、ライブ配信に詳しい方がありましたら改善策についてご教示いただければと願っています。

 電話などをくだされば助かります。

 口頭では分からないこともあるかもしれません。

 できれば当教会にお越しくださり、配線などについてのアドバイスをいただければと願っています。

 快適な音声の状態になれば、僅かばかりですがお礼したいと思います。

 お願いできますでしょうか?

 

 

<礼拝説教(要旨)>バックナンバー

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