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2011年7月17日 (日)

ルカによる福音書17章11~19節 「イエスに応える」

今日の聖書は癒しの物語であるだけでなく、主イエスの語る「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉は、今の教会に向かって、主イエスの前にある相応しさを自己吟味するようにとの促しでもあるのです主イエスのところに戻らなかった人は、病気が癒されてしまえば「ユダヤ人」という多数派に戻れたのです。しかし、このサマリア人は、癒されてもなおマイノリティーです。ルカによる福音書9章には、サマリア人の村でイエスとその一行が拒否された話があります。弟子のヤコブとヨハネは、その村で天からの火で焼き払ってしまおうと言いますが、主イエスは彼らの言葉に対して怒りを表し、サマリア人に逆らうことをしませんでした。また、10章では、いわゆる「善きサマリア人のたとえ」が語られています。隣人とは誰か、という問題をめぐっての問答に導かれてのたとえです。強盗に襲われて血まみれで倒れていた人を祭司もレビ人も、その人を無視して穢れを恐れて通り過ぎたのに、サマリア人は憐れに思い、介抱して宿に連れていき、当面の宿代を支払い、追加分があれば、また支払う、という物語です。誰が隣人であるか、がテーマとなっています。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(10:36-37)となっています。隣人になっていく道が主イエスの道なのだというのです。この箇所を踏まえて今日のテキストに立ち返るなら、隣人になっていくような道、差別を乗り越えて、心の底から共に生きる生活への促しは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉によって開かれてくる世界観であり、主イエスの望んでおられる社会のあり方であることに気づかされていきます。主イエス・キリストその方がどのような旅を続けエルサレムに向かい、十字架上で処刑されていったのか。その復活の力に与ることとはどのようなことなのか。聖霊の注ぎを受けた者が、主イエスに応えていくとはどのようなことなのか。これらを批判的に自己吟味することなしに、わたしたちはキリスト者ではありえないことを心に深く刻みつけるときが来ています。主イエスの眼差しによって促される力は、決して無効になってしまうことはありません。今もここに聖霊の働きによって支えられているのです。隣人になっていくような道、差別を乗り越えて、心の底から共に生きる生活への促しは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉によって開かれてくる世界観であり、主イエスの望んでおられる社会のあり方なのです。

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